絵描きとしては遅咲きの川瀬巴水。①跡取り息子のため若い頃は絵の道に進むことが許されなかった。➁鏑木清方に弟子入りを依頼するも「25歳では遅過ぎる」と門前払い。③やむなく白馬会で洋画を学ぶも、油絵には馴染めず。④再び清方に弟子入りを懇願してようやく入門が許可。この時点で、すでに27歳になっていました。
当初は美人画や風景画を手掛けていましたが、同門の伊東深水の木版画《近江八景》を見て感服。自分の進むべき道が、木版画で日本の風景を描く事であると、ようやく気が付きました。
時は1918(大正7)年。後に「昭和の広重」とまで称賛された木版画家・川瀬巴水が、35歳を迎えた年でした。
会場の冒頭から巴水の成功は、その作品の大部分を手掛けた版元、渡邊庄三郎の手腕なくしてはあり得ませんでした。
浮世絵の良品が海外に流出し、同時代の木版画に見るべきものがない状況を憂いた渡邊は、新たに日本的な情緒を表現できる木版画を作れば必ず売れると、鋭く予見しました。
海外の人が求める、日本的な情緒を描ける画家。渡邊の眼鏡にかなったのが、川瀬巴水でした。
巴水は日本中を巡りながら、味わい深い風景を次々に描写。渡邊の判断は見事に的中し、巴水の新版画は、特にアメリカで爆発的にヒットしました。
代表的なシリーズのほか、スケッチや試摺など版画制作の過程も紹介されています巴水の絵で特に人気が高かったのは、雪景色の寺社、番傘、和服の人物など。大正末~昭和初期の作品としては古めかしい画題です。ゆえに「広重の継承に過ぎない」と揶揄されたこともありますが、巴水は黙々と日本の風景を描き続けました。
関東大震災や敗戦を経て風景が大きく変わっていく中で、「日本はこうあって欲しい」という人々の想いは何なのか。巴水は誰よりも理解していたのです。
巴水は1957(昭和32)年に74歳で死去。死の直前まで手掛けていた作品は、雪の降るなかを一人石段を進む僧侶を描いた《平泉金色堂》でした。
戦時中に手掛けた日本軍を題材にした版画や、海外向けの月刊誌など。最期の作品は《平泉金色堂》展覧会では「渡邊版 ─ 新版画の精華」も同時に開催中です。渡邊庄三郎の仕事を回顧する企画で、千葉市美術館の所蔵品の中から73点が紹介されています。
オーストリア人のフリッツ・カペラリ、山村耕花、名取春仙、吉田博らの作品とともに、巴水が感銘を受けた伊東深水の「近江八景」シリーズも展示されています。
同時開催の「渡邊版 ─ 新版画の精華」巴水が没した5年後に、渡邊庄三郎も死去。残念ながら錦絵再興の流れを継ぐ者は現れませんでしたが、人々の願いに忠実に向き合った巴水の画業は、色あせることはありません。
なお、本展は全国に巡回します。大阪展(2014年2月26日~3月10日:大阪高島屋)、横浜展(3月19日~3月31日:横浜高島屋)、山口展(3月19日~3月31日:山口県立萩美術館・浦上美術館)、京都展(9月25日~10月6日:京都高島屋)、東京展(2015年1月2日~1月12日:日本橋高島屋)です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2013年11月28日 ]※展示作品の版画は全て渡邉木版美術画舗蔵