20世紀を代表するスペイン出身の芸術家、ジュアン・ミロ(1893–1983)。自然や宇宙、詩からインスピレーションを得た独自のシンボルや形を用い、子どものような自由な感性と深い精神性をあわせ持つ画風で知られ、今なお多くの人に影響を与えています。
東京都美術館では、70年におよぶ創作活動全体を振り返る大規模な回顧展が開催中です。

東京都美術館「ミロ展」会場入口
ミロは1893年、スペインのカタルーニャ州に生まれました。幼少期から美術に親しみ、父の勧めで商業の道へ進みましたが、1911年に芸術に専念することを決意し、美術の勉強を再開します。
バルセロナで広まりつつあった前衛芸術の影響を受け、1918年に初の個展を開催。キュビスムやフォーヴィスムの影響を受けながら、カタルーニャの風景と前衛的表現を融合させた独自の作風を築いていきました。

(右)《自画像》1919年 パリ・国立ピカソ美術館
1920年に初めてパリを訪れたミロは、都市の近代性と前衛芸術に魅了され、翌年から本格的に活動を開始します。1922年にはアンドレ・マッソンの隣のアトリエに移り、シュルレアリスムの作家や詩人たちと交流を深めました。
一方で、創作の原点であるカタルーニャ南部のモンロッチと行き来しながら詩的な表現手法を確立。1925〜1927年には「夢の絵画」シリーズを制作し、パリでの評価を高めました。

《絵画=詩(栗毛の彼女を愛する幸せ)》1925年 ジュアン・ミロ財団、バルセロナ(寄託)
《焼けた森のなかの人物たちによる構成》は、日本で初めて展示されたミロ作品2点のうちの1点です。展覧会は1932年、東京府美術館(現・東京都美術館)で開催された「巴里・東京新興美術展覧会」で行われ、シュルレアリスム運動の創始者アンドレ・ブルトンも企画に加わっていました。
約90年ぶりに、同じ会場で作品が再び展示されることになります。

《焼けた森のなかの人物たちによる構成》1931年 ジュアン・ミロ財団、バルセロナ
1936年にスペイン内戦が始まると、ミロはフランスへ逃れ、共和国政府を支持しますが、やがて軍事独裁政権が誕生します。この時期から、作品には陰鬱な背景や怪物のような存在が現れ、メゾナイトなど異素材を用いた表現も登場するようになります。
第二次世界大戦が始まると、ミロはノルマンディー地方の小村ヴァランジュヴィル=シュル=メールに移住。戦火を逃れてスペインへ帰国した後も制作を続け、詩的な絵画表現を確立していきました。

《絵画(カタツムリ、女、花、星)》1934年 国立ソフィア王妃芸術センター、マドリード
1947年には初めてアメリカを訪れ、若い芸術家たちとの交流から刺激を受けると同時に、版画技術も学びます。帰国後はエッチングやリトグラフに本格的に取り組み、陶芸や彫刻など新たな分野にも情熱を注ぐようになりました。1956年には念願の大きなアトリエをマジョルカに構え、構想に時間をかけた大作の制作に取り組みます。
1966年と1969年には日本を訪れ、日本文化との親和性を再確認。創作にも大きな影響を与えました。

《クモを苦しめる赤い太陽》1948年 ナーマド・コレクション
1939年の夏、第二次世界大戦の勃発直前にミロはフランスのヴァランジュヴィル=シュル=メールに移り、翌年から〈星座〉シリーズの制作を紙にグワッシュで始めました。戦火が迫る中、完成した作品を持ってスペインへ戻り、マジョルカ島などで残りの作品を描き上げます。
展示されている3点には、恐ろしげな怪物が描かれ、時代の不安を象徴していますが、ミロはあえて星空を描くことで、現実への静かな抵抗を表しました。

《カタツムリの燐光の跡に導かれた夜の人物たち》1940年 フィラデルフィア美術館
1937年から翌年にかけては鉛筆画の《自画像》を制作。1960年には長年放置していた複製作品に手を加え、黒く太い線で顔や目、肩の輪郭を描き、ところどころに色を差して象徴的な要素を強調し、まったく新しい表現に昇華させました。

《自画像》1937-60年 ジュアン・ミロ財団、バルセロナ(寄託)
晩年のミロは、オブジェや新たな支持体を用い、若い頃から掲げていた「芸術の脱神聖化」をさらに推し進めました。1960年代にはアメリカの若手芸術家たちの影響を受け、大作に取り組みながら、身体の動きを反映させた大胆な筆致や、絵具のぶちまけ、カンヴァスの焼却・切断といった手法を用いるようになります。
ミロは生涯を通じて絵画の本質を探究し、常に新たな表現に挑み続けたのです。

《花火Ⅰ》《花火Ⅱ》《花火Ⅲ》1974年 ジュアン・ミロ財団、バルセロナ
政治や戦争によって自由が脅かされる中でも、想像力と表現の力を信じ続けたミロ。その芸術の深さと多様さを、あらためて体感できる展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2025年2月28日 ]