資料の収集と継承は、ミュージアムの責務。東京都江戸東京博物館が新たに収蔵した資料を、一般に公開する恒例の展覧会が、同館の5F企画展示室ではじまりました。
会場風景
令和元年度・2年度に加わった収蔵品から、厳選された資料を紹介する本展。会場は時代順の4章構成で、第1章は「将軍家の権威と旗本・豪商」です。
会場に入って最初に展示されているのは、勝海舟の父、勝小吉の回顧録「夢酔独言」。小吉は幼いころから奔放で素行が悪く、就職もままならなかった事などが、飾らない口語体で綴られています。
勝小吉 筆《夢酔独言》1843年(天保14)
本展の白眉といえるのが《紅葉山八講法会図巻》です。徳川家康の百三十回忌にあたる1745年(延享2)3月、8代将軍吉宗が江戸城内紅葉山東照宮で行った、華麗な法要の模様を描いた絵巻です。こちらは輪王寺宮門跡公遵親王の輿。あまりに長いので一度ではお見せできませんので、後期は吉宗の輿に巻替えされます。
《紅葉山八講法会図巻》(部分)江戸中期
第2章は「江戸が育てた美と技の世界」です。
江戸を代表する絵師・文人の酒井抱一(1761~1828)。1809年(文化6)に下谷大塚(現・台東区根岸5丁目付近)に居を移し、「雨華庵」の額を掲げました。1815年(文化12)に尾形光琳の百回忌法要が行われたのも、この雨華庵。琳派を再興した地としても、重要な意味を持っています。
酒井忠実 書《「雨華庵」額》1817年(文化14)
その酒井抱一と、蒔絵師の原羊遊斎のコラボ作品といえるのが《三味線 銘「岸波」》です。抱一が下絵を描き、羊遊斎が蒔絵を施した、豪華なオーダーメイド品です。この三味線には両者の銘が海老尾の裏に記されています。
酒井抱一 書、原羊遊斎 蒔絵《三味線 銘「岸波」》江戸後期
第3章は「大東京-発展する都市」。西洋に追いつこうと近代化を進めた日本。その中心として大きく繁栄した東京ですが、1923年(大正12)9月1日の関東大震災で壊滅的な被害を受けました。
多くの報道機関が機能不全に陥る中、被災を免れた印刷所らは絵葉書を制作。9月10日前後から販売されました。質は高くないものの、情報に飢えていた人々に飛ぶように売れたといわれます。
《関東大震災絵葉書 焼失後の須田町万世駅 他》1923年(大正12)
明治から昭和にかけて活躍した政治家、高橋是清(1854~1936)。内閣総理大臣にも就任していますが、特に大蔵大臣を6度も務めた財政家として高く評価されています。
「ダルマ宰相」の愛称で親しまれた是清は、とても家族思い。是清の子孫から寄贈された資料の中には、幸せそうな集合写真が目を引きます。軍事予算の抑制を試みたことが恨みを買い、二・二六事件で非業の死を遂げました。
高橋是清 関連資料
最後は第4章「首都東京-戦争から復興へ」。1940年(昭和15)に開催が予定されていた東京オリンピック。東京市は招致に際し、東京の街並み、風景、競技場などを収録したアルバムを作成。五輪開催地としての適正を世界にアピールしました。残念ながら日中戦争のために開催は幻に。この資料も海外向けに配布されたため、国内の所蔵例が少ない貴重な資料です。
《Tokyo Sports Center of the Orient「東洋のスポーツ中心地東京」》1933年(昭和8)
太平洋戦争中は、芸術も国家に利用されています。軍の主導で陸軍美術協会、大日本海洋美術協会が発足。画家たちも「絵筆で国に報いる」を意味する「彩管報国」を合言葉に、積極的に協力しました。一般の国民も、とても多くの人々が展覧会に足を運び、その内容を絶賛した事は忘れてはなりません。
大日本海洋美術協会 編《大東亜戦争海軍美術》1943年(昭和18)刊 / 陸軍美術協会 編《大東亜戦争陸軍作戦記録画》1943年(昭和18)刊
なお「市民からのおくりもの」というタイトルから全てが寄贈品と思われがちですが、寄贈とともに購入したものもあります。今回の《紅葉山八講法会図巻》も購入した資料です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年3月8日 ]