細川家第16代当主の細川護立(1883-1970)により、細川家に伝来する文化財の散逸を防ぐために設立された永青文庫。護立は禅僧の書画や近代絵画、東洋美術のみならず、稀代の刀剣コレクターでもありました。
永青文庫が所有する国宝の刀剣全4口が約8年ぶりに勢揃い。肥後金工の鐔など刀装具とあわせてご紹介する展覧会が、永青文庫で開催中です。
永青文庫「揃い踏み 細川の名刀たち ― 永青文庫の国宝登場 ―」会場
第1章は「揃い踏み 細川護立 心酔の刀剣」。護立は学習院中等学科在学中、肋膜炎にかかり休学していた10代の頃から、刀剣の目利きを学び、審美眼を磨いてきました。
展覧会の冒頭から、さっそく国宝の刀剣が登場します。「生駒光忠」として知られるこの刀は、備前国長船の刀工・光忠の作。信長や秀吉、家康に従った生駒一正が所有していました。
国宝《刀 金象嵌銘 光忠 光徳(花押) 生駒讃岐守所持(生駒光忠)》鎌倉時代(13世紀)
こちらも国宝で、細川家初代の幽斎(藤孝)ゆかりの太刀です。
関ヶ原合戦で東軍の幽斎は丹後国田辺城に籠城。後陽成天皇は、古今和歌集の奥義の継承者だった幽斎を失うことを恐れ、烏丸光広らを勅使として遣わせて講和が実現。この太刀はその記念に幽斎が光広に贈ったもので、「古今伝授の太刀」と呼ばれます。
国宝《太刀 銘 豊後国行平作(古今伝授の太刀)》平安~鎌倉時代(12~13世紀)
続いて「歌仙兼定」として知られる名刀。細川家二代の忠興が、息子の忠利に家督を譲り隠居していた頃、忠利の施政が忠興の意にそぐわなかったため、この刀で36人も成敗されました。そのため、三十六歌仙になぞらえて命名されたといいますが、史実かどうかは定かではありません。
《刀 銘 濃州関住兼定作(歌仙兼定)》室町時代(16世紀)
第2章は「肥後金工の名品 揃い踏み!」。江戸時代、熊本で発展した刀装金具が「肥後金工」です。その流派は林派、平田派、西垣派、志水派などがあり、各派の名工たちにより、個性的な刀装金具が生み出されました。
重要文化財《桜に破扇図鐔》は、破れた扇と桜を表現した鐔。裏面にも朽ち果てる扇子のデザインが表されています。
重要文化財 伝 林又七《桜に破扇図鐔》江戸時代(17世紀)
第3章は「武家の格式 後藤家による刀装金具」。後藤家は室町時代から始まる金工師の家系。足利将軍家、信長、秀吉、徳川将軍家と時の為政者の抱え工として、幕末まで三所物(みところもの:小柄・笄・目貫)を中心に手がけました。
《猿猴捉月図三所物》の笄は、後藤家三代・乗真自身による銘が刻まれた唯一の作品。身の程知らずの望みを持つと失敗することのたとえである「猿猴捉月」の故事がモチーフです。
重要美術品 目貫・笄:後藤乗真 小柄:後藤通乗《猿猴捉月図三所物》目貫・笄:室町時代(16世紀)小柄:宝永7年(1710)
第4章は「在野の金工・町彫の逸品」。将軍や大名の御用をつとめた後藤家が「家彫」に対し、市井で活躍した在野の金工が「町彫」です。町彫は自由な立場で、多種多様な材質、新たな彫法などを取り入れた作品を生み出しています。
奈良利寿は町彫の名工ですが、その作品は数えるほどしか伝わっていません。《牟礼高松図鐔 銘 利壽(花押)》はその代表作です。
重要文化財 奈良利寿《牟礼高松図鐔 銘 利壽(花押)》江戸時代(18世紀)
戦禍が激しくなると、細川護立は自身のコレクションを熊本の細川家別邸に疎開させました。展示されている目録には251件が収録されており、刀剣の項目には「行平」(古今伝授の太刀)など永青文庫が所蔵する全4口などが見られます。
この疎開により名品は戦禍をくぐり抜け、現在まで伝わっているのです。
《熊本移管品目録》昭和18年(1943)11月
展覧会は「刀剣乱舞ONLINE」(とうらぶ)ファンはお待ちかねだったと思います。「文京区×刀剣乱舞ONLINEコラボレーション」として、永青文庫周辺の文京区関口・目白台エリアを中心に、細川家ゆかりの3振りの刀剣男士「歌仙兼定」「古今伝授の太刀」「地蔵行平」とコラボレーションし、パネル展示やスタンプラリーなど様々なイベントが開催されます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2023年1月13日 ]