代表的な作品を一堂に集めて、快慶の足跡を7章で紹介する本展。会場は豪快な金剛力士立像から始まります。
「慶派」の祖である康慶の弟子だった快慶。快慶は1192(建久3)年には後白河院追善の弥勒菩薩坐像を手掛けており、この頃には康慶の多くの弟子の中でも特別なポジションだったと思われます。初期の作品からも、端整な表現が伺えます。
快慶が大きく飛躍したのが、源平の争乱で焼失した東大寺の再興事業です。総合プロデューサーといえる重源(ちょうげん)のもとで、精力的に活躍しました。この時期の傑作とされるのが、国宝《僧形八幡神坐像》。生気に満ちた写実的な表現が印象的です。
第1章「後白河院との出会い」、第2章「飛躍の舞台へ ―東大寺再興―」運慶は東国で多くの造仏に関わりましたが、快慶は意外なほど東国での作例が少なく、確証があるのは二例だけ(ともに展示されています)。いずれも東国の要衝である伊豆山と関係がある事から、この地で活躍した天台僧と関係があったと見られています。
平安時代には個人的な願いによる造仏が比較的多かったのに対し、鎌倉時代になると多数の人々の結縁と合力によって造仏が行われるようになります。快慶が手掛けた像にも、内部から多数の名前が記された紙が見つかっているものがあり、快慶の仏像は多くの人に支持されていた事も分かります。
第3章「東国への進出」、第4章「勧進のかたち ―結縁合力による造像―」重源の死後、快慶は朝廷や門跡寺院との関わりを深めます。現在、メトロポリタン美術館が所蔵する不動明王坐像は、青蓮院旧蔵と見られるもの。隣に展示されている兜跋(とばつ)毘沙門天立像と一具をなしていた可能性もあります。
快慶は、後半生に大和国長谷寺の本尊・十一面観音像も手掛けています。同像は過去に何度も焼失しており、6度目といわれる被災の後に再興したのが快慶です。ただこの像も後に焼失、会場では弟子の長快が忠実に模した十一面観音立像が展示されています。
第5章「御願を担う ―朝廷・門跡寺院の造像―」、第6章「霊像の再生 ―長谷寺本尊再興―」快慶が活躍した平安末期から鎌倉初期は、浄土教が隆盛した時代です。快慶自身も熱心な阿弥陀信仰者で、生涯をかけて阿弥陀如来立像の理想像を追及。像高三尺(約90センチ)前後の「三尺阿弥陀」を数多く残し、後に「安阿弥様(あんなみよう)」と呼ばれる典型的なスタイルになりました。
展覧会最後には「安阿弥様」の三尺阿弥陀がずらり。注目していただきたいのは衣の部分。襟のたるみの部分が徐々に変化し、現実的な感覚が付け加えられている事が分かります。やや専門的ですが、会場ではパネルで分かりやすく解説されていますので、ぜひ覚えてください。
第7章「安阿弥様の追求」前述した衣の表現を含め、快慶が造った仏像の特徴や鑑賞ポイントを解説している動画が公式サイトで紹介されています。全11回とやや長めですが、ビッチリ見るとより深くお楽しみいただけます。
本展と、秋に東京国立博物館で開催される「運慶」展、そして興福寺の「阿修羅 -天平乾漆群像展-」の3会場を巡ってスタンプを集めると、公式阿修羅フィギュアなど抽選で記念品をプレゼントする企画も実施中です。こちらも詳しくは公式サイトでご確認ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2017年4月10日 ]■快慶 奈良国立博物館 に関するツイート