亜熱帯を中心に分布する植物・芭蕉からとれる天然繊維を原料にした織物、芭蕉布。沖縄を代表する織物ですが、戦後の混乱でその伝統技法は消滅しかけていました。
その技法を復興させたのが、平良敏子(1921-)です。2000年に重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定された平良敏子の手仕事を紹介する展覧会が、大倉集古館で開催中です。
大倉集古館「芭蕉布-人間国宝・平良敏子と喜如嘉の手仕事-」会場入口
かつては奄美から沖縄、南西諸島一帯で作られていた芭蕉布。軽く張りがあって肌に纏わりつかない芭蕉布は、琉球では王族から庶民まで着用され、中国や周辺国への貢物や貿易品でもありました。
江戸時代の日本にも薩摩を経由して入っており、芭蕉布でつくられた裃は、武家の夏の正装として着用されました。
(左から)芭蕉布 着物「赤染 コーザー」平成12年(2000)芭蕉布織物工房[全期間展示] / 煮綛芭蕉布 琉球着物「黄地 小鳥 引下 綾中」平成11年(1999)公益財団法人 日本伝承染織振興会[展示期間:6/7〜7/3]
琉球王国時代は、士族が赤や黄色の芭蕉布を纏う一方で、庶民が着用できるのは生成りや茶色などに限られていました。
喜如嘉(きじょか)で作られる芭蕉布も以前は生成り、茶色、藍色が基調でしたが、昭和後期から琉球王国時代の「煮綛(ニーガシー)」技法を再現。沖縄の天然染料で、鮮やかな色彩を生み出しています。
(左から)煮綛芭蕉布 胴衣 裙「黄地 胴衣 無地 裙」平成23-24年(2011-2012)芭蕉布織物工房 / 煮綛芭蕉布 胴衣 裙「ハベル付 藍方筋 胴衣 茶地 裙」平成24年(2012)喜如嘉の芭蕉布保存会[ともに全期間展示]
平良敏子は沖縄県大宜味村喜如嘉生まれ。母から織物の基礎を学び、戦時中は女子挺身隊の一員として岡山県倉敷市の航空機製作所で働き、倉敷の地で終戦を迎えます。
平良を支援していた倉敷紡績社長の大原総一郎のはからいで、民芸運動の指導者で染織家の外村吉之介(とのむらきちのすけ)に師事。柳宗悦が著した『芭蕉布物語』を見て、出身地の喜如嘉で作られていた芭蕉布の復興を決意しました。
(右奥)『芭蕉布物語』(初版)柳宗悦著 1943年(昭和18)芭蕉布織物工房[全期間展示]
終戦翌年の昭和21(1946)年に帰郷した平良敏子ですが、当時、芭蕉畑はマラリアを媒介する蚊の発生源になるとして、アメリカ軍によって焼き払われていました。
当初は米軍払い下げの毛布やテントをほどいて糸を織らざるを得なかった平良ですが、やがて芭蕉布づくりに取り組んでいく事となります。
(左から)芭蕉布 着物「三羽 方筋」昭和 芭蕉布織物工房 / 芭蕉布 琉球着物「型付 舞菖蒲」令和2年(2020)大宜味村 / 芭蕉布 着物「格子柄」昭和 芭蕉布織物工房[すべて展示期間:6/7〜7/3]
伝統的な芭蕉布の製作には、多大な時間と手間がかかります。
3年間に及ぶ糸芭蕉の栽培からはじまり、収穫、煮熟、糸作り、絣糸の手括り、染め、手織り、洗濯と、何段階も経た後に、ようやく反物に。芭蕉の繊維は綿や絹より硬く、乾燥すると切れやすいこともあり、すべての工程において熟練した技術が必要です。
道具類
喜如嘉で織られる芭蕉布に絣柄が入るようになったのは以外と新しく、明治30年代からです。
沖縄の織物が商品として扱われるようになると、単純な無地や縞だけでなく、他地域の織物も参考にして絣柄が取り入れられるようになりました。
(左上から)芭蕉布 裂地「四玉 クヮーサー 番匠」平成 芭蕉布織物工房 / 芭蕉布 裂地「藍コーザー 蘇鉄の葉」平成 芭蕉布織物工房 / 芭蕉布 裂地「経 銭玉」平成 芭蕉布織物工房[すべて全期間展示]
昔からある小鳥の絣を応用して、平良敏子が考案したオリジナルのツバメ柄が「小鳥」です。
民芸運動にかかわりが深い陶芸家のバーナード・リーチが「このツバメはまるで翔んでいるようだ」と感心したと伝わります。
芭蕉布 着物「一玉小鳥」昭和58年(1983)芭蕉布織物工房[全期間展示]
大倉集古館は、明治から大正時代にかけて活躍した実業家・大倉喜八郎(1837〜1928)が、明治35年(1902)に自邸内に開館した大倉美術館が前身です。大正6年(1917)に財団法人化しました。現存する日本最古の私立美術館、かつ、日本で最初の財団法人の私立美術館でもあります。
伊東忠太が手がけた建築も独特の魅力を放つ大倉集古館。会場の雰囲気にもとてもマッチした展覧会です。事前予約なしでお楽しみいただけます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年6月13日 ]