織田信長の時代から江戸時代の終焉まで、国持大名として存続した細川家。その屋台骨を支えたのが、筆頭家老をつとめた松井家です。
細川家と松井家の伝来品から、武士の社会における主君と家老の関係を紹介する展覧会が、永青文庫で開催中です。

永青文庫 外観
織田、豊臣、徳川と政権が移行し、滅亡する大名も多い中、長きに渡って存続した細川家。その筆頭家老だった松井家は抜群の力量で細川家を支えました。
展覧会は4章構成で、第1章は「松井家と宮本武蔵」から。冒頭では松井家三代の肖像が並びます。
松井家初代は康之。将軍・足利義輝に仕えた後に細川藤孝の家臣になり、以後、松井家は細川家の筆頭家老になります。松井家二代の興長は4人の藩主に仕え、三代寄之も32年にわたって家老をつとめています。

(左から)英中玄賢賛《松井寄之像》延宝5年(1677) / 霊叟玄承賛《松井興長像》寛文3年(1663) / 以心崇伝賛《松井康之像》慶長17年(1612)すべて松井文庫蔵
佐々木小次郎との戦いで知られる剣豪・宮本武蔵(1582/84~1645)。その実像は不明な部分が多いものの、晩年を過ごした熊本での様子は比較的明らかで、熊本入りには松井興長が尽力したとも伝わります。
熊本では連歌や茶、書画、細工などをして過ごした武蔵。重要文化財《鵜図》は、武蔵真筆とされている水墨画の基準作と位置付けられている作品。ゆれがあるたどたどしい描線は、武蔵の水墨画の特徴です。

(左から)宮本武蔵筆《野馬図》江戸時代(17世紀)松井文庫蔵 / 重要文化財 宮本武蔵筆《鵜図》江戸時代(17世紀)永青文庫蔵(熊本県立美術館寄託)
第2章は「戦国最強の家老・松井康之」。松井家初代の康之(1550~1612)は、室町時代末から江戸時代初期にかけて活躍しました。
その働きぶりは、天下人も認めるほど。朝鮮出兵でも武功をあげたことから、秀吉は石見半国を与え直参大名に取り立てようとしますが、細川家への忠義からこれを拒否しました。
その志に感激した秀吉が康之に与えたのが《唐物茶壺 銘 深山》です。

八代市指定有形文化財《唐物茶壺 銘 深山》中国・元~明時代(14~15世紀)松井文庫蔵
康之は藤孝・忠興から冷遇された時期もありましたが、忠興が家康から謀反の嫌疑をかけられた際にも、外交能力を発揮して危機を救っています。
晩年に病を患った際には、忠興から毎日のように見舞状が届いており、両者の絆の強さがうかがい知れます。

《細川忠興見舞状群》慶長13年(1608)松井文庫蔵(八代市立博物館寄託)
重要文化財《織田信長黒印状》は、細川藤孝に宛てた手紙です。天正9年、康之は丹後水軍を率いて、秀吉の因幡鳥取城攻めを支援。毛利を相手に大きな戦果をあげ、信長は「比類なき働き」と激賞しています。
捺されているのは、有名な「天下布武」印。この印をデザインしたマスキングテープも販売中です。

重要文化財 細川藤孝宛《織田信長黒印状》天正9年(1581)9月16日 永青文庫蔵(熊本大学附属図書館寄託)
第3章は「モノ言う家老・松井興長」。松井家二代の興長(1582~1661)は細川忠興・忠利・光尚・綱利と、4人の藩主に仕えました。
細川家が藩主としてふさわしい存在となるよう、時には、忌憚のない意見を主君に述べる事もあった興長。
特に、幼くして家督を継いだ綱利には厳しく、江戸で流行していた相撲に熱を上げる綱利に対し、10日かけて5メートルに及ぶ諫言状を書き上げています。

山本三左衛門尉宛《松井興長自筆諫言状》万治3年(1660)3月12日 松井文庫蔵(八代市立博物館寄託)
第4章は「松井家と茶の湯」。細川忠興と松井康之は千利休の高弟でもあり、茶の湯に深く親しみました。
《南蛮耳付水指》は、古田織部が康之に贈った水指です。ベトナムで焼かれたと考えられており、異国との交易でもたらされました。

《南蛮耳付水指》ベトナム・17世紀 松井文庫蔵
なお、永青文庫近くのホテル椿山荘東京では、コラボレーションランチとして《緋黒羅紗段替陣羽織》をイメージした「陣羽織寿司御膳」を設定しました。お得な展覧会チケット付きプランもあるので、詳しくはホテル椿山荘東京の公式サイトをご覧ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年3月11日 ]