全国で行われている発掘調査は、なんと年間約9,000件。地道な調査の積み重ねはとても重要ですが、一般の方が発掘調査の成果に触れる機会は極めて限られています。
埋蔵文化財を通じて、日本の歴史・文化の魅力発信と、その保護の重要性に関する理解を深めてもらう、恒例の企画展。インターネットミュージアムでは2012年から毎年紹介しており、これでちょうど10回目になります(2012年、2013年、2014年、2015年、2016年、2017年、2018年、2019年、2020年)。
会場はいつものように、江戸東京博物館
まずは新企画の「我がまちが誇る遺跡」。継続的な発掘調査で明らかになった「地域の個性的な歴史」や「魅力的な遺跡」を、全国の地方公共団体の企画提案で紹介します。
千葉県市原市国分寺台遺跡群では、縄文時代後・晩期の大規模貝塚を紹介。「縄文海進」に伴う海域環境の変化が、生活様式やムラの在り方に大きな変化をもたらしました。
我がまちが誇る遺跡「千葉県市原市国分寺台遺跡群」
続いて「瀬戸内海の水運」。西日本の水運の大動脈である瀬戸内海。福山沖で潮流が東西に分かれるため、近代以前には瀬戸内海を往来する船は、鞆の浦で潮待ちのため停泊しました。
この地には、古代には備後国の国分寺・国分尼寺、中世には港湾遺跡の草戸千軒町遺跡、そして江戸時代には福山城が築かれ、人々や文物の交流の舞台として発展しました。
我がまちが誇る遺跡「瀬戸内海の水運」
室町時代の山口に君臨した守護大名・大内氏がもたらした「大内文化」。画僧・雪舟をはじめ、京都から多くの公家や文化人が訪問。京都や東アジア文化を積極的に取り入れたまちづくりで、栄華を極めました。
ここでは遺跡から出土した遺物や遺構を中心に「大内文化」を創出した大内氏について紹介されています。
我がまちが誇る遺跡「大内文化」
この後はいつものように「新発見考古速報」。展示されている18遺跡の中から、ここでは興味深い3つの遺跡をご紹介します。
ユニークな表情の「ミミズク土偶」が見つかったのは千葉県我孫子市の下ヶ里貝塚、縄文時代後期~晩期の遺跡です。ミミズク土偶は小型ながら、まげの部分に立体的な船形の表現が見られます。
下ヶ里貝塚(千葉県我孫子市)「ミミズク土偶」
大分県玖珠町の四日市遺跡は、弥生時代中期後半の集落。なんと150棟に及ぶ竪穴建物と16棟の堀立柱建物、子ども用の墓である小児用甕棺がみつかっています。
発掘された土器の中には、雄のシカや矢羽根が描かれた線刻絵画土器もありました。シカは豊穣の祈りを表したものと思われています。
四日市遺跡(大分県玖珠町)
山形県米沢市の大南遺跡は、室町時代から戦国時代の在地領主の屋敷跡。この時期には伊達氏が進出していたため、館の主も伊達氏と関係する人物と思われます。
「僧形神立像」は当時の神仏習合の様子を示す、全国でも珍しい例。耳は福耳、唇は赤く塗られ、穏やかな表情です。
大南遺跡(山形県米沢市)「僧形神立像」
会場後半は「記念物100年 次の100年に向けて」。文化財保護法の前身のひとつ、史蹟名勝天然紀念物保存法の施行から100年を記念した、3年連続の特集展示です。
記念物は歴史や自然を学ぶ素材としてだけでなく、地域のシンボルとしても貴重な存在。和歌山県串本町の「史跡 樫野埼灯台及びエルトゥールル号遭難事件遺跡」は、日本とトルコの国際交流の礎にもなっています。
「記念物100年 次の100年に向けて」
会場ごとに行われる地域展、東京展は「江戸の金箔瓦」です。
信長や秀吉らが活躍した桃山期の壮麗な建築を彩っていた金箔瓦。江戸時代初期の大名屋敷にも引き継がれていたことが、近年の発掘調査によって明らかになっています。
開幕により、天下一の大都市になった江戸。出土した金箔瓦からは、その栄華を偲ぶ事ができますが、明暦3年(1657)の明暦の大火で姿を消したとされています。
「江戸の金箔瓦」 《内神田二丁目出土 伝佐竹家上屋敷跡 金箔軒丸瓦》千代田区教育委員会/所蔵
近年の発掘では、縄文時代にも火葬が行われていた可能性を示すもの(上野遺跡/新潟県村上市)や、重さの基準が朝鮮半島の規格と共通していた事を示す弥生時代の遺跡(須玖遺跡群/福岡県春日市)など、これまでの常識を覆すような発見も報告されています。私たちが教科書で学んできた日本の歴史も、次々にアップデートされていきそうです。
展覧会は東京から北海道、群馬へと巡回します。会場と会期はこちらです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年6月7日 ]