曹洞宗、臨済宗とともに、日本における三禅宗のひとつである黄檗宗。大本山は京都の萬福寺。特に高い寺格とされる「黄檗三叢林」は、仙台の大年寺、萩の東光寺、そして鳥取の興禅寺です。
中国地方で黄檗をテーマにした展覧会は初めて。萬福寺の総門を模したゲートをくぐり、全4章で構成されています。
第1章は「隠元禅師の来日と黄檗禅林の美」。黄檗宗を日本に伝えたのは中国の高僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき)です。長崎の華僑の人々から度重なる要請を受け、承応3年(1654)に来日しました。
隠元がもたらしたのが、臨済宗の一派である黄檗です。当時、日本の禅宗が停滞していると考える僧たちの力添えで、4代将軍徳川家光に謁見し、萬福寺を開創しました。
黄檗宗はその教えだけでなく、明・清時代の中国からさまざまな文化をもたらしました。明朝体、木魚、煎茶などのほか、インゲンマメには、ずばり隠元の名が残っています。
この章にある珍しい涅槃図も、清から入ってきた作品。動物まで嘆き悲しむ、という一般的な図像と異なり、釈迦は樹に寄りかかり、動物は無し。人物の陰影4表現も特徴的です。
第2章は「黄檗に魅せられた全国の殿様たち」。仙台藩主の伊達家、萩藩主の毛利家、そして鳥取藩主の池田家は、黄檗の教えに共鳴し、大名家の宗旨として帰依。家臣や領内にも伝播し、黄檗の勢力は拡大していきました。
この章に多く展示されている黄檗の肖像画は、やや異様です。それまでの一般的な頂相(禅僧の肖像画)は斜め向きに描かれるのに対し、黄檗の頂相は正面向き。陰影も付いているので、かなりリアルです。
第3章「黄檗の雄 鳥取藩主池田家と興禅寺」では、鳥取と黄檗の関係について掘り下げます。
現在の興禅寺は、もとは臨済宗妙心寺派の龍峰寺でした。住職の堤宗(ていじゅう)は、厳しい戒律の黄檗の教えに共鳴。堤住を父のように慕っていた鳥取藩初代藩主の池田光仲も、黄檗に宗旨替えし、寺の名前は興禅寺に改められました。
最先端の文化をもたらした黄檗には、当時の文化人も惹きつけられました。俳諧師、儒者、医師、文人などが集い、興禅寺は鳥取藩における文化サロンのような位置付けとなります。
本展の見どころのひとつと言えるのが、歴代藩主の位牌と肖像。初代から11代までの肖像と位牌が揃うのは、なんと150年ぶりです。
ここでは興禅寺の仏像も紹介。目尻が吊り上がり、腹部に巾着のような花結びがあるなど、こちらも異形。黄檗様式と呼ばれる、中国式の造形です。
第4章は「因幡・伯耆の黄檗寺院」。現在の鳥取県内の黄檗寺院は7寺ですが、江戸時代の最盛期には30を超えていました。
鳥取県内の寺院には、他の宗派の寺院にも関わらず、黄檗宗の影響を受けた寺院が見られる事から、黄檗が鳥取で広く支持されていた事が分かります。
展覧会を見た方は、近くの興禅寺もオススメです。書院の北側に、見事な庭園が残っています。展覧会会場の鳥取県立博物館から、歩いて15分程です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2019年10月7日 ]