石崎光瑤(1884~1947年)は、明治後期から昭和初期に京都で活躍した花鳥画を得意とした日本画家。これまで故郷の富山県など北陸地方以外で紹介されることは殆どなく、生誕140年の節目に初期から晩年までの代表作を一挙公開する関西初の大規模回顧展です。
金沢で江戸琳派を継承する絵師・山本光一に学び、19歳で京都に出て竹内栖鳳に師事、本格的な登山家の一面も持ち、若冲研究者でもあります。画風の展開とともに光瑤の多彩な魅力にじわじわと引き込まれる展覧会です。
会場は明治の名建築(重要文化財)
一歩足を踏み入れると、いきなり迫力満点の緻密な大作が続きます。枝垂れる藤を照らす銀色の月、その柔らかな光によって花弁の一枚一枚が良く見える。
《森の藤》 大正4年(1915)、南砺市立福光美術館
一本の樋を覆いつくすほどに咲き誇る真っ白い卯の花とユリ。羽根を休めるつがいのツバメもこの光景にしばし見惚れているのかもしれない。鏑木清方が「静寂な気品」に惹かれたと記したそうです。宮内省買い上げとなった光瑤の出世作、飾り金具には菊の御紋が見えます。
《筧》 大正3年(1914)、南砺市立福光美術館
この展覧会以前に石崎光瑤について知っていたことが2つ。ひとつは、大阪中之島美術館の開館記念展で初対面にして釘付けになった《白孔雀》。
光瑤は、1916年から翌年にインドを訪問した後、六曲一双屏風の三部作《熱国姸春》、《燦雨》、そして《白孔雀》を描きました。名作と呼ばれています。会期中10/1から10/14の2週間だけ三部作が勢揃いします。見逃せません。
《熱国姸春》 大正7年(1918)、京都国立近代美術館 ※前期展示
天地257.3センチの最も背の高い作品は展示ケースの天井ギリギリで収まっています。大木の枝にとまる7羽の孔雀は、本来生息場所が異なるインド孔雀とマレー孔雀が描かれ、写生と装飾の融合を図った作品。よくよく見ると愛嬌たっぷりに画面に入る7羽目が分かりました。
《寂光》 昭和4年(1929)、南砺市立福光美術館
樹の幹と枝が伸びる方向に躍動感があって構図も素敵だし、近づいてみると楓モチーフの連続がモダンなデザイン画を見ているような洒落た作品。
《紅楓》 昭和6年(1931)、南砺市立福光美術館
この展覧会以前に石崎光瑤について知っていたことの2つ目は、大阪・西福寺の襖絵: 《仙人掌群鶏図襖》が若冲の作品であると発見・発表したこと。本展にて若冲研究の先駆者であり、多数の模写を残していると知りました。
《鶏之図(若冲の模写)》 大正15年(1926)、富山市郷土博物館 ※左幅:前期展示
光瑤は極楽鳥を好んだそうです。なるほど、この二幅には種類の異なる極楽鳥が双方の視線が合うように描かれ、南国情緒豊かな植物が散りばめられてシノワズリーのタペストリーを見ているよう。エキゾチックな雰囲気は、さながら南国版動植綵絵と言えましょう。
《麗日風鳥》 大正13年(1924年)、南砺市立福光美術館
南国から一転して、大原、鞍馬、愛宕に取材した雪景色。右隻は当初より伊藤若冲の《動植綵絵》の影響が感じられる作品と言われています。降り積る雪を感じるほどに厚塗りの油絵のような筆致で描かれた大作、これをクリスマスシーズンに飾りたいと妄想する。
《雪》 大正9年(1920)、南砺市立福光美術館
さて、ここまでも感嘆することしきりですが、更なる目玉展示が。高野山 金剛峯寺では、宗祖弘法大使入定1100年記念事業の一つとして新築する奥殿の襖絵を光瑤に依頼。光瑤はインドを再訪、ヒマラヤ山脈をイメージした作品で応えています。通常非公開の襖絵20面の再現展示は圧巻です。このうち《雪嶺》8面は、寺外初公開。
金剛峯寺 奥之院 《虹(こう)雉(ち)の間》
金剛峯寺 奥の院 《雪嶺》
昭和10年代に入ると作風が変化します。余白の美と補足繊細な線で描かれる植物を前にすると凛とした空気感が漂い背筋が伸びました。シンプルに美しい。
《霜月》 昭和17年(1942) 南砺市立福光美術館 ※前期展示、《黄菊白菊》 昭和14年(1939) 永青文庫、《遅日》 昭和14年(1939) 南砺市福光美術館
このころの光瑤は、朝早くから牡丹の写生に没頭していたそうです。様々な種類の牡丹の花が陶製の器に盛られた様子を描いた晩年の大作から静謐な美しさが溢れています。
《聚芳》 昭和19年(1944)、南砺市立福光美術館
初期から晩年までの作品を鑑賞して万感胸に迫る思い。文展、帝展での受賞歴を重ね、画壇の地位を築きつつも戦後の混乱期に62歳で他界し、これまで広く紹介される機会に恵まれず。特別展「生誕140年記念 石崎光瑶」、画業も人柄も光瑤の全容を知る貴重な展覧会、お薦めします。
[ 取材・撮影・文:hacoiri / 2024年9月12日 ]