印象派を代表する画家のひとり、クロード・モネ(1840-1926)。刻々と変化する自然の移ろいをとらえ、晩年には巨大なカンヴァスで部屋の壁面を覆いつくす “大装飾画”を進めました。
パリのマルモッタン・モネ美術館の重要作およそ50点に国内の作品も加えて、モネ晩年の芸術世界を展観する「モネ 睡蓮のとき」が、国立西洋美術館で開催中です。
国立西洋美術館「モネ 睡蓮のとき」会場入口
展覧会は第1章「セーヌ河から睡蓮の池へ」から。1890年、50歳になったモネは、7年前に移り住んだノルマンディー地方の小村ジヴェルニーの土地と家を買い取って終の棲家としました。
ただ、ジヴェルニーの自邸の庭はすぐ作品になったわけではありません。1890年代後半は、ロンドンの風景やセーヌ河の風景を描いた作品が目立ちます。
クロード・モネ《舟遊び》1887年 国立西洋美術館(松方コレクション)
1896年から1898年にかけて、モネはジヴェルニー近くのセーヌ河の眺めを主題とする連作、およそ20点を制作しました。制作にあたり、モネは毎朝3時半に起床し、光の微妙な変化をみながら、カンヴァス14点を並行して描いたと伝わります。
詩情豊かなこれらの連作はカミーユ・コローの作品と比較され、モネの名声は高まりました。
クロード・モネ《ジヴェルニー近くのセーヌ河支流、日の出》1897年 マルモッタン・モネ美術館、パリ(エフリュシ・ド・ロチルド邸、サン=ジャン=キャップ=フェラより寄託)
第2章は「水と花々の装飾」。19世紀末のフランスでは装飾芸術が流行し、多くの画家たちが装飾画の制作に取り組みました。モネも1870年代の印象派時代から装飾画を手掛けていましたが、やがて睡蓮による装飾画の構想を固めていきます。
モネは当初、睡蓮による装飾画の上部に、藤の花をモティーフにしたフリーズ(帯状装飾)を計画していました。展示されている2点の〈藤〉は、現存する8点のフリーズの習作の中で、最も大きなものです。
(左から)クロード・モネ《藤》1919-1920年頃 マルモッタン・モネ美術館、パリ / クロード・モネ《藤》1919-1920年頃 マルモッタン・モネ美術館、パリ
1920年、モネは計12点の睡蓮の装飾パネルをフランスに寄贈することに合意。オテル・ビロン(ビロン邸)の敷地に専用の展示室が新設されることになりました。
ピロン邸の計画は「緑の反映」「雲」「三本の柳」そして「アガパンサス」と4つの主題でしたが、財政上の理由などからチュイルリー公園の既存の建物(現在のオランジュリー美術館)に変更。4つの主題のうちアガパンサスだけは、オランジュリーの大装飾画には受け継がれることなく、放棄されました。
(左から)クロード・モネ《アガパンサス》1914-17年頃 マルモッタン・モネ美術館、パリ / クロード・モネ《睡蓮》1914-17年頃 アサヒグループ大山崎山荘美術館 / クロード・モネ《睡蓮》1914-17年頃 マルモッタン・モネ美術館、パリ
第3章は、本展最大の見どころといえる「大装飾画への道」。国立西洋美術館の地下の展示室が、オランジュリー美術館を彷彿とさせる楕円形のしつらえになっており、モネの〈睡蓮〉に包まれます。この第3章のみ、来場者も写真撮影が可能です。
「大装飾画(Grande Décoration)」はモネが長年に追い求めていた装飾画の計画で、睡蓮の池を描いた巨大なパネルによって、楕円形の部屋の壁面を覆うプラン。最終的にこの計画は、オランジュリー美術館で実現しました。
(右手前)クロード・モネ《睡蓮》1914-1917年頃 マルモッタン・モネ美術館、パリ
1914年以降の〈睡蓮〉はそれまでの作品と比べて巨大化し、多くの場合、長辺が2メートルにおよびます。作品のサイズに応じ、モネは新たに広いアトリエも建設しています。
展覧会のメインビジュアルでもあるこの作品に描かれている雲の反映像は、〈睡蓮〉に限ると、1909年以前の作品にはほとんど登場していません。ただ1914年以降になると、枝垂れ柳とその反映像とともに、重要なモチーフになりました。
クロード・モネ《睡蓮》1916-1919年頃 マルモッタン・モネ美術館、パリ
第4章は「交響する色彩」。モネは1908年ごろから白内障が進行。悪化する視力に苦しみながらも制作を続けました。
1918年の終わりごろから最晩年には、大装飾画の制作と並行して、小型の連作も制作。睡蓮の池に架かる日本風の太鼓橋も画題になりました。
この太鼓橋は、モネが収集していた葛飾北斎や喜多川歌麿の浮世絵から着想してつくられたとされています。
(左から)クロード・モネ《日本の橋》1918年 マルモッタン・モネ美術館、パリ / クロード・モネ《日本の橋》1918年 マルモッタン・モネ美術館、パリ
モネによる最後のイーゼル画の連作は、自身が40年にわたり暮らした家を、ばらの花が咲き誇る庭から眺めた情景でした。
ばらの連作は今日18点が知られており、この作品は、木立越しに斜めから捉えた8点のうちの1つです。
この8点で、モネは構図は厳密に固定しながら色調は大胆に変化させています。異なる色彩の配置を確かめているようです。
(左手前)クロード・モネ《ばらの庭から見た画家の家》1922-1924年頃 マルモッタン・モネ美術館、パリ
エピローグ「さかさまの世界」で展示されている2点の作品は、いずれもオランジュリーの大装飾画のうち《朝の柳》の左パネルに関連する習作です。
左の作品で枝垂れ柳が描かれた場所から画面奥の岸辺まで近づき、水面へと視線を移したものが右の作品です。モネは異なる視点から描かれたこの2点の習作を組み合わせ、大装飾画の画面にしました。
(左から)クロード・モネ《枝垂れ柳と睡蓮の池》1916-1919年頃 マルモッタン・モネ美術館、パリ / クロード・モネ《睡蓮》1916-1919年頃 マルモッタン・モネ美術館、パリ
会場は全ての作品がモネの油彩画という贅沢な構成。東京展ではモネ〈睡蓮〉が過去最多のが23点集結しています(巡回展の作品数は異なります)。
東京展の後は京都市京セラ美術館、豊田市美術館に巡回します。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2024年10月4日 ]