関西では20年ぶりというイタリアの画家ジョルジョ・デ・キリコ(1888-1978)の大回顧展が、東京都美術館に次いで、神戸市立博物館で開催されている(一部の作品は東京会場のみで展示)。
特別展「デ・キリコ展」会場外観
デ・キリコの作品と言えば、1910年代に創出された「形而上絵画」。彼が実際に見たであろう建築物や彫像が虚構空間の中に配置されることで、なにやら不穏な空気が漂ってくる。
第2章―1「形而上絵画:イタリア広場」展示室風景
彼が第一次世界大戦中に駐屯していたフェッラーラで日常的に目にしていたという用具や、お菓子、軍事地図などで構成されている作品においても、それぞれの意味や物理的な繋がりは全く見えてはこない。
《福音書的な静物I》1916年(大阪中之島美術館所蔵)
そんな作品を手掛けていたデ・キリコが、1919年以降、一転して伝統的な絵画技法に興味を抱くように。過去の巨匠たちの模写作品は、まさに彼の古典絵画研究の痕跡そのもの。
《眠れる少女(ジャン=アントワーヌ・ヴァトー(1684-1721)の原画に基づく)》1947年;《男性の頭部(ティツィアーノ・ヴェチェリオ(1490頃-1576)の原画に基づく)》1945年(ローマ、ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団所蔵)
そして晩年の1960年代の作品には、すっかりポップに変調した虚構の世界が。こうしてデ・キリコの70年余りにわたる画業を辿ってみるとは、あたかも「形而上絵画」の創出→西洋絵画の伝統への回帰→「形而上絵画」の新たな展開、という変遷が浮き彫りになってくるかのよう。
《橋の上での戦闘》1969年(ローマ、ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団所蔵)
ただ、一見「秩序への回帰」を思わせる静物が、よく見てみると粗野な岩場の風景と掛け合わされていたり、
《岩場の風景の中の静物》1942年(ローマ、ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団所蔵)
彼が「画家としての立場を表明する手段」として生涯にわたって描き続けた自画像と組み合わされていたり、さらには自らの手になる形而上絵画の「複製」まであり、異なる時間、記録と記憶、意識と無意識の交錯は絶えることがない。
《自画像のある静物》1950年代半ば;《鎧をまとった自画像》1948年(ローマ、ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団所蔵)
絵画だけではなく、彫刻や、詩画集の挿絵、舞台衣装のデザインも手掛けたデ・キリコ。
《アイアス》1970年(ローマ、ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団所蔵)
彼の初期から晩年までの作品に出会える本展で、何度も繰り返し現れる主題を追ってみたり、
第2章―3「マヌカン(マネキン)」展示室風景
作品と、その制作年代・背景を照らし合わせれば、デ・キリコが対峙し続けていたのは、意識的であれ無意識的であれ、自らが生きる世界の現実と虚構の「関係」を現出させること、であったようにも思えてくる。
《風景の中で水浴する女たちと赤い布》1945年(ローマ、ジョルジョ・エ・イーザ・デ・キリコ財団所蔵)
デ・キリコの「形而上絵画」に大きな影響を受け、後に決別することになるアンドレ・ブルトン(1896-1966)が「シュルレアリスム宣言」を発表したのは1924年のこと。その100周年にあたる今年、彼らが共有したものと出来なかったものを、デ・キリコの画業を通して改めて考えてみると、一見非現実的な彼の作品から、列強の圧政下にあったギリシャに生まれ、ドイツ、イタリア、フランスなどを移転しながら歩んだ彼の人生、そして2つの世界大戦を含む彼の生きた時代、という「現実」が見えてくるのかも?
1954年に芦屋で結成された「具体美術協会(具体)」の吉原治良(1905-1972)が、1930年代にデ・キリコに魅了されていたことと併せて、本展が今秋、関西で開催された意義を異なる次元からも問うてみたい。
[ 取材・撮影・文:田邉めぐみ / 2024年9月13日 ]