戦後の復興から高度経済成長へと向かっていた1950年代の日本。美術分野でも具体美術協会の結成や抽象表現の拡大など、さまざまな動きがありましたが、メキシコ美術への憧憬が広まったのもこの時代でした。
福沢一郎、岡本太郎ら5人の美術家に焦点を当て、日本人美術家がメキシコをどう捉えていたのかを探る展覧会が、埼玉県立近代美術館で開催中です。
埼玉県立近代美術館「メキシコへのまなざし」会場入口
1955年、東京国立博物館で「メキシコ美術展」が開催されました。古代から現代まで1000点超の作品が紹介されるなか、「現代美術」部門では、ディエゴ・リベラ、ホセ・クレメンテ・オロスコ、ダビッド・アルファロ=シケイロス、ルフィーノ・タマヨの4人が大きく紹介されました。
この展覧会は日本の美術界に衝撃を与え、特にメキシコ革命後、公共建築の壁画を通じて民族的アイデンティティを表現したリベラらの作品は、日本の美術家に強い影響を与えました。
第1章「メキシコ美術がやってきた!」
1950年代、日本の美術家たちはメキシコ美術に強い影響を受けました。その背景には、米軍基地闘争やダム建設といった社会問題を描く「ルポルタージュ絵画」の流行や、戦後の文化的アイデンティティの模索がありました。メキシコの壁画運動が示した、自国の歴史や社会に目を向けた独自の美術表現は、日本の美術家にとって欧米追随とは異なる創作の指針となったのです。
展覧会の中心となる第2章では、メキシコ美術に影響を受けた5人の美術家を取り上げます。
最初は岡本太郎(1911-1996)。1930年代のパリ留学中にメキシコの遺跡や神像の写真に衝撃を受け、その宇宙観に共鳴しました。渋谷駅にある「明日の神話」は、もとはメキシコのホテルに設置される予定でした。1963年に初めてメキシコを訪問し、1967年の再訪ではシケイロスのアトリエを訪れています。
第2章「美術家たちのメキシコ ― 5人の足跡から」岡本太郎
福沢一郎(1898-1992)はフランスで絵画を学び、日本にシュルレアリスムを紹介した画家です。晩年には文化勲章も受章しました。
1953~54年に中南米を訪れ、早くからメキシコ文化に注目していました。1957年の《埋葬》はメキシコの死生観を反映した作品で、日本国際美術展で最高賞を受賞しました。
第2章「美術家たちのメキシコ ― 5人の足跡から」福沢一郎
芥川(間所)紗織(1924-1966)は声楽を学んでいましたが、作曲家の芥川也寸志と結婚後に絵画に転向し、蝋纈染めを用いた作品を制作しました。
1955年の「メキシコ美術展」に影響を受け、民芸や壁画運動に共感。日本の神話や民話を題材とした作品を展開しましたが、41歳で早逝しました。
第2章「美術家たちのメキシコ ― 5人の足跡から」芥川(間所)紗織
利根山光人(1921-1994)は戦後の社会を見つめる画家として活動しました。1955年の「メキシコ美術展」に感銘を受け、1959年にメキシコへ渡りました。
現地で個展を成功させ、日墨の文化交流に貢献したため、メキシコ政府から勲章も授与されています。
第2章「美術家たちのメキシコ ― 5人の足跡から」利根山光人
河原温(1932-2014)は1959年にメキシコに渡り、サン・カルロス美術学校で学びましたが、この時期の作品はほとんど残っていません。
その後、ニューヨークを拠点にコンセプチュアル・アートへと移行。1968年に再訪したメキシコで「日付絵画」を展開し、新たに「I GOT UP」シリーズにも着手しました。
第2章「美術家たちのメキシコ ― 5人の足跡から」河原温
後に埼玉県立近代美術館初代館長となった本間正義(1916-2001)も、1955年の「メキシコ美術展」に感銘を受けた一人です。
1962年にメキシコを訪問し、メキシコ美術をテーマにした展覧会を企画したほか、館長就任後はタマヨの版画を収集。本間の退任後も埼玉県立近代美術館はメキシコ美術との関係を継続しました。
また、埼玉県とメキシコ州、浦和市(現・さいたま市)とトルーカ市は1979年に姉妹提携を結び、文化・スポーツ交流を続けてきました。
第3章「埼玉とメキシコ美術」
1950年代の日本でメキシコ美術が与えた衝撃は、単なる異文化への憧れではなく、戦後の日本が自らの芸術のあり方を模索するなかで、新たな視点をもたらすものでした。
時を超えてなお続く埼玉とメキシコの文化的なつながりとともに、戦後日本美術の広がりを改めて考えるきっかけとなる展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2025年2月1日 ]