武士が争いを繰り返しながら、支配を拡大してきた中世。戦士であるとともに、地域の領主として存在した武士に焦点をあてた展覧会がはじまりました。
武士たちが地域の支配を実現させたのは、個人の力量ではなく、一族や家人によって構成された武士団でした。会場では主に3つの領主組織を紹介しながら、地域の支配の実態に迫っていきます。

《赤糸威大鎧》 復元 千葉市立郷土博物館蔵
第1章「戦う武士団」では、絵巻や武具・武器から武士団の圧倒的な武力を示していきます。
2度の蒙古襲来を受けた肥後国の武士たちを描写した絵巻をみると、平安末期~鎌倉時代の戦闘の特徴が分かります。絵巻には、肥後国の武士・竹崎季長の武士団の中核メンバーが騎兵6騎と歩兵2人の構成。領主によって武士団の規模は様々ですが、中核的な武力は意外に小さかったと考えられています。

《紙本著色蒙古襲来絵詞(複製)下巻(部分)》 13世紀末 国立歴史民俗博物館蔵
鎌倉時代の武士と言えば“一か所”の領主を命懸けで守る「一所懸命」を語られることも多いですが、2章ではそのイメージを相対化します。
実際の武士団は、複数の所領と本領を行き来をしながら支配を行っていました。全国規模に主領をもっていた千葉氏もそのひとつです。
1971年、千葉県の成田ニュータウンの造成時に梵鐘が発見されます。銘文には、肥後国佐賀郡の寺院で鋳造されたことが示されていることから、千葉胤貞が当時の所領の九州から下総の国に持ち込んだと考えられています。このことからも、これまでのイメージとは異なる武士が全国を行き来している姿を知ることができます。

重要文化財《八代椎木出土梵鐘》 宝亀5年(774) 国立歴史民俗博物館蔵
行き来をする複数の所領の中でも中核となる本領、つまり“苗字の地”を支配して拠点として暮らしてた武士団。3章「武士団の支配拠点 ― 地域のなかの本拠」では本拠がどのように築かれ、どのような生活を送ってきたのか示していきます。
ここでは石見益田氏と肥前千葉氏の本拠に着目し、屋敷や交通路、用水路、寺社などの景観を復元。タッチパネルでも時代を遡ることができます。また、集落で出土した中国産の白磁や青磁や、国内の流通の様子がわかる陶磁壺も紹介します。

3章「武士団の支配拠点」 《韋駄天山遺跡出土品》 14世紀中葉~15世紀前半 胎内市教育委員会蔵
4章は「武士団の港湾支配 ― 地域の内と外をつなぐもの」。 当時、使用された船の多くは緩やかな速度で移動する貨物船でした。そうした貨物船の移動を支えるインフラとして、大小無数の港湾と港町が生まれ、大型外洋船の往来によって、列島各地は世界とも結びついていました。

《中世貸客両用和船復元模型》 国立歴史民俗博物館蔵
海に面した石見益田は、交通や物流の支配においていかに港湾を支配するかは重要な点でした。昼夜問わず従来した大型の外洋船がどのように港を移動したのか、船舶の航路を知ることができます。

4章「武士団の港湾支配 ― 地域の内と外をつなぐもの」
展示室Bに移り、入口に現れるのは、木造多聞天立像・木造持国天立像。千葉宗胤が“平朝臣息災延命、当郡安穏、施主円満”を願ってつくられたもの。息災を祈るためだけでなく、小城郡に暮らす人びとの安穏も祈るためにつくられたとされています。

佐賀県重要文化財《木造多聞天立像・木造持国天立像》 永仁2年(1294)円通寺蔵
地域社会に定着することで、保護する立場となっていく武士団。民衆をいたわる“撫民の思想”と、殺生と無縁ではいられない“職業戦士”としての立場との狭間で苦悩します。
第5章「霊場を興隆する武士団 ― 治者意識の目覚め」では、地域社会の救済のために宗教者集団と提携し、その活動と拠点となる寺社を整備し、造立した仏像を紹介します。

(左)《木造釈迦如来坐像》 応安4年(1371)医光寺蔵
エピローグの6章は「変容する武士団」。南北朝時代の戦乱の時代を契機に、山城を持つようになった武士たち。 圧倒的な武力を持つ武士団は存在感を増し、地域社会は武士団を中心にまとまりっていきます。
また、自らを権威づけて地域社会に対する求心力の維持を図るひとつとして、文化的な優越性を誇示していきます。益田氏が保持しているの雪舟の絵画、山水図、狩野派の作品からも、自らを権威づけたことが分かります。

6章は「変容する武士団」
2010年に『武士とはなにか』という問いをテーマに企画展を開催した国立歴史民俗博物館。今回の展示では多様な視点から変容していく武士集団を紹介することで、 これまでと異なる武士の姿を感じることができます。
会場では、カネミくんとツネタネくんによるポイント解説もおすすめです。
[ 取材・撮影・文:坂入 美彩子 / 2022年3月14日 ]