大正~昭和初期にかけて『少年倶楽部』『少女画報』『日本少年』『婦人世界』などさまざまな雑誌に挿絵を描き、出版界を席巻した高畠華宵(たかばたけかしょう:1888-1966)。
「少年の中には少女が、少女の中には少年がいる」と評された独自の作品世界を、最盛期の作品で振り返る展覧会が、弥生美術館で開催中です。
弥生美術館「大正ロマン・昭和モダンのイラストレーター 高畠華宵展 ―ジェンダーレスな まなざし―」会場入口
少年からも、少女からも、そして紳士淑女からも、熱烈に支持された高畠華宵。冒頭に並ぶのは〈華宵便箋〉の表紙原画です。
〈華宵便箋〉は、華宵の絵を用いたレターセット。大正末から昭和初期の女学生たちにとって、手紙は友人同士のコミュニケーションに欠かせないツールでした。華宵のレターセットは、村田社から発売されたものが25万部を超えるなど、爆発的な人気を誇りました。
高畠華宵《華宵便箋表紙原画》大正末~昭和初期
大正末から昭和初期にかけては、雑誌の創刊ブーム。新しい娯楽にともなって台頭してきたのが、挿絵画家です。
当時は印刷技術が未熟だったため、写真より絵のほうが視覚的効果がありました。挿絵画家の力量は、雑誌の売れ行きに直結したのです。
美少女も美少年も描けた華宵は、挿絵画家として貴重な存在でした。少年雑誌でも少女雑誌でも活躍し、さらに大人向けの雑誌の仕事も手がけていました。
高畠華宵『少女画報』東京社
高畠華宵『日本少年』実業之日本社
華宵が描く少年と少女は、髪型をのぞくと性差をあまり感じません。華宵の美意識が反映されたものですが、これは華宵自身が「男性と女性、両方の心と眼を持っていた」から、現在のLGBTだった事も要因のひとつです。
生涯を通して独身だった華宵。挿絵画家として成功を収めた後は、ヨーロッパ風の調度品があふれる鎌倉の豪邸で、美少年たちに身の回りの世話をさせて生活しました。
華宵はしばしば、彼らのスケッチも描いています。少年たちのふとした表情から、創作のインスピレーションを得ていたことが分かります。
高畠華宵《内弟子を描く》大正期
挿絵画家が描く美人画は、現在ならファッション雑誌のモデルのような存在でした。
竹久夢二、蕗谷虹児、加藤まさをなど、同時代には女性の装いを得意にした画家は数多くいますが、こと和装に関しては、華宵は他の人には負けない、絶対の自信を持っていました。
独創的な着物柄と、着こなしがわかる細部までゆきとどいた作画。自分でもこんな装いをしてみたいという華宵の欲求があふれ出ているようです。
高畠華宵《口真似》『華宵新作抒情美人画』より 昭和6年
どんな画題でも描けた華宵は、多くの小説挿絵も描いています。
当時の日本の印刷技術で、最も美しく印刷できたのはペン画でした。華宵は率先してペン画の技術を磨き、流れるようなタッチと、メリハリが効いた構成の作品を量産。一冊の雑誌のなかで複数の物語をかけもちする事もある、文字通りの売れっ子画家でした。
高畠華宵《ナイル薔薇曲》『少女画報』昭和4年3月号~昭和5年3月号連載
「校風物語」は、実在の女学校に取材し、その学校の生徒を主役として創作したシリーズです。
高等女学校の生徒に人気を集めていた『少女画報』。いつか自分たちの学校も取り上げられるかもと、期待を集めていた事でしょう。
高畠華宵《校風物語》「ミドリの名作」フェリス和英女学校の巻
華宵の特徴として、脇役描写の巧みさも挙げられます。
中年の男女や老人など、人物の性格や生き様がにじみでるような描き方は、主人公の少年少女が同じ顔つきであるのとは対象的。
すみずみまでゆきとどいた画力ゆえに、雑誌界で重用されたのです。
(上)高畠華宵《濱の墓場》『日本少年』大正15年2月号挿絵原画 / (下)高畠華宵《華麗の鞭》『少女画報』昭和3年7月号挿絵原画
そもそも高畠華宵は、弥生美術館の基幹といえる存在です。美術館創設者の弁護士・鹿野琢見は、9歳の時に、当時一世を風靡していた華宵の作品に出会って感激。36年後に知遇を得て、二人は親しく交友しました。
鹿野は展覧会を開くなど、積極的に華宵を支援しました。この活動が、晩年は不遇だった華宵の再評価に繋がりました。
華宵が没した後、鹿野の手に渡ったコレクションを公開するため、1984年(昭和59)に創設されたのが現在の弥生美術館です。
展示作品は館蔵品ということもあり、すべて撮影自由です。お楽しみください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年7月5日 ]