19世紀初頭のイギリスにおいて、風景画を刷新したコンスタブルとターナー。当時は、歴史画と肖像画が優位に置かれ、風景画では自活できないと言われていました。
1歳年長の好敵手ターナーとコンスタブルの創作活動は対称的。よきライバルとして「風景画」の地位を確立し向上させた2人の歩みを紹介します。
ジョン・コンスタブル《イースト・バーゴルトハウス》
コンスタブルが生まれたイングランド東部、イースト・バーゴルトは、画家の創作原点となった場所です。父が営む製粉所など、故郷のフラットフォード周辺をモチーフに作品制作が行われました。地元を離れることなく、周辺で描き続けたことからも、生まれた土地を愛し、大切にしていることが伺えます。
左:J. M. W. ターナー《ぺンブローク城》 / 中央:J. M. W. ターナー《テムズ川とアイズルワースの船着き場》
一方、ターナーは絶えず各地を旅して、景観を素描に納めます。ウェルズを旅しながら大衆向けの市場を開拓し、スケッチを数多く描いて完成作に仕上げました。(写真左)
テムズ川では家を借り、テムズ川の風景を探求。水彩と油彩で習作を手掛けます。(写真中央)
自然にもとづく大型作品制作
ジョン・コンスタブル《フラットフォードの製粉所(航行可能な川の情景)》
「創造力の源泉は自然にある」 コンスタブルは、根源的な本質を探るためには、戸外で描く必要があると考えていました。作品は展覧会に向けて、次第に大型化しますが、細部までほぼ完全に戸外で描くことにこだわりました。
それを実現できたのは、地元で描き、近くにあった父の製粉所に画材を置くことができたこと、専用のアトリエを用意してもらうなどの支援を得られたことに起因します。
左:J. M. W. ターナー《コーンウォルのセント・ジョンから望むヘモアズ》 / 右:J. M. W. ターナー《南から望むゴダルミン》
ターナーは、デヴォンの海岸沿いプリマス周辺で油彩のスケッチを戸外で行いました。持ち運びできる絵の具と、下処理済みの紙を贈られたことがきっかけです。遠くの水平線上には、大型軍艦が多数描かれています。(写真左)
テムズ川を上り支流のウェイ川に沿って小旅行もしました。画材は船に積み、そこがアトリエの役割を果たします。右の作品はマホガニーの化粧板に油彩で描きました。
ターナー 対 コンスタブル
右:ジョン・コンスタブル《ウォータールー橋の開通式(ホワイトホールの階段、1817年6月18日)》 / 左:J. M. W. ターナー《ヘレヴーツリュイスから出航するユトレヒトシティ64号》
1832年、ロイヤル・アカデミー夏季展で、好敵手ターナーと並んで展示されてから、約190年の時を経て、日本で対峙です。これまで3回の対決がありましたが(最初の展示を除く)、ロンドン以外で両者の展示は初めてです。
コンスタブルの作品は、着想から十数年を要した力作で、展覧会に出品した最大の風景画です。ターナーの作品を上回り、暖色を用いた大型作品は観客の注目を集めそうでした。
一方、ターナーの作品は、銀色を帯びた寒色の海の絵を得意とし、高い評価を得ていました。が、観客の目を引き寄せようと、最終仕上げの期間、前景に赤いブイを加えるという禁じ手に及びました。
コンスタブル関連地図
コンスタブルの描いた風景画から、彼が愛してやまない故郷の空や空気感を追体験できます。
時空を超えた旅は、地理的な距離、時間的な隔たりを超えて、今、日本とも繋がりました。ライバルの2人が火花を散らす心情に思いを巡らせ、風景画が受容されていく歴史の旅も体験できます。
[ 取材・撮影・文:コロコロ / 2021年2月19日 ]
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