力自慢の力士。軍隊でも大きな戦力になりそうですが、実は逆です。身体が大きすぎて合う軍服や軍靴も無い事から、徴兵検査では丙種合格(合格の中では最低ランク)も数多くいました。
入隊まで至るのは若い力士が多かったようですが、中には後に横綱まで上り詰めた力士もいます。43代横綱の吉葉山はその一人で、十両昇進直前に召集。中国を転戦し、105kgだった体重は65kgまで落ちてしまいました。展示されている復帰後の写真は、軍隊生活の名残りか短髪姿です。
「栃若時代」を築いた栃錦(44代横綱)も十両時代に応召を受け、海軍に入隊しています。静岡に配属されて、戦闘機を迎撃する機銃員に。吉葉山と違って国内に留まったのが幸いし、戦後初の本場所(1945年11月)に復帰し、勝ち越しています。
召集を経て横綱になった、吉葉山と栃錦
戦争末期には多くの力士が召集され、中には2度の応召を経験した力士もいます。展覧会では戦地での経歴が分かる力士を中心に紹介されていますが、召集さえなければもっと上位で活躍したであろうと思われる人もいます。
なお、召集された力士は番付上の地位は守られました。1939(昭和14)年1月場所の番付では、しこ名の上に「応召」「入営」と表記。翌年5月場所になると入営力士が増え、番付の欄外に記載されるようになりますが、1942(昭和17)年になると入営そのものが機密事項となり、番付には記載されなくなりました。
「應召」の文字が見える番付
戦争への協力が全てに優先していた時代、召集されなかった力士も、銃後で戦争に関わっていました。慰問はもちろん、まわし姿での軍事教練、花相撲で資金を集めて軍に献金、力士が所持する銀杯や楯を集めた金属供出、戦闘機「相撲号」の献納、等々…。これは相撲界に限りませんが、積極的に戦争に加担せざるを得ない時代でした。
変わったところでは、松の根を掘る勤労奉仕にも力士が参加しています。松の切り株から得る「松根油」をガソリンの代替にする計画でしたが、力士の奮闘もむなしく計画そのものが実用化に至りませんでした。
力士たちの軍事教練を報じる写真ニュース、など
プロ野球も競馬も戦時中は中止された事がありますが、大相撲の本場所は続いています。旧両国国技館が風船爆弾の工場として陸軍に接収された時も、代替地として後楽園球場で行われ、日曜日には6万3000人も動員した記録が残っています。
その旧両国国技館は、1945年3月10日の東京大空襲で被災。建物は炎上し大鉄傘には大きな穴が開きましたが、賜杯を収めている金庫は力士のバケツリレーによって守られました。
東京大空襲では、現役力士も死亡しています。長身の美男力士で人気が高かった松浦潟(まつらがた)は29歳、双葉山にも勝った事がある豊嶋(とよしま)はまだ25歳でした。
会場のパネルは、陸軍による戦意高揚スローガン「撃ちてし止まむ」の化粧廻しをつけた豊嶋。隅田川の中で、杭につかまったまま亡くなりました。
東京大空襲で亡くなった現役力士、松浦潟と豊嶋
船が撃沈されて屋久島沖で戦死した沢村栄治(巨人)、手榴弾の投擲で肩を痛めた景浦將(阪神)など、戦争と野球の関連はしばしば目にしますが、相撲と戦争をテーマにした展覧会は初めての開催。決して派手ではありませんが、知られざる一面にスポットを当てた意欲展です。相撲道を極めた三人の横綱(双葉山、羽黒山、男女ノ川)が、他の力士と同じように国民服に身を固め、軍事教練で整列する姿が強く印象に残りました。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年10月22日 ]
※次回展の関係で、急遽会期が変更になりました。
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