会場は、まずプロローグとして名所絵や美人画を紹介。江戸の人々が関心を持っていた世界をおさらいします。
日本に写真がもたらされたのは、幕末の長崎です。当初はなかなか撮影の技術を身につける事ができませんでしたが、まず鵜飼玉川が、ついで「西の彦馬、東の蓮杖」と称された上野彦馬と下岡蓮杖が日本初の営業写真師として活躍をはじめます。
さらに内田九一、横山松三郎、鈴木真一(初代、2代)、江﨑禮二、中島待乳、小川一眞らが後に続き、競うように技を磨いていきました。
プロローグ、第1章「日本の絵と渡来した写真 ─ 二つの世界 ─」「究極のリアル」である写真の登場は、従来の絵師にも強い影響を与えました。写真を意識した結果、容貌だけが異様にリアルな岩倉具視など、バランスを欠いた作品もこの時期には見られます。
ただ、写真と絵は対立していたわけではありません。女性は従来の描写、男性は写真風に描いた夫婦像などもあり、表現の違いは意識する事なく受け入れられていたのです。
さらに進んで、絵と写真の融合を図った例もあります。画家の五姓田芳柳と写真師の江﨑禮二は協業し、写真を用いた肖像画を制作。絵と写真の積極的な交流が見て取れます。
第2章「絵と写真の出会い」見たままをそっくりに表現する試みは、幕末から明治にかけて新しい技術や安価な画材が導入されると、さらに活発になります。
泥絵(どろえ)は、胡粉や土などを染料で染めた泥状の安い絵具で描かれた絵画。舶来染料のベロ藍を多用した、庶民向けの洋風画です。
ガラスの裏から絵を描くガラス絵は、セル画のような仕上がり。皿や引き手金具のような小道具だけでなく、大型の絵画も作られました。
ひときわ目を引く風景図は、切り抜いた人物(着色写真)を貼り、背景はガラス絵で描いたもの。螺鈿などの高級素材も用いられており、輸出用の高級品だったと考えられます。
第3章「泥絵・ガラス絵・写真油絵 ─ 時代が生んだ不思議なモノ ─」絵と写真の究極の融合といえるのが、横山松三郎が開発した「写真油絵」です。
写真油絵は、印画紙の表面だけを残して写真の裏紙を除去し、そこに油絵具で着彩するという凝った技法。海外の製品を参考にしたものですが、開発された技術は日本独自の手法となりました。
写真油絵の技術は横山の弟子だった小豆澤亮一が受け継ぎ、小豆澤は特許も取得。初代から10代までの東京府知事の肖像も写真油絵で制作しました。ただ、小豆澤は特許を取得からわずか5年後(1890年)に死去したため、幻の技法となってしまいました。
第3章「泥絵・ガラス絵・写真油絵 ─ 時代が生んだ不思議なモノ ─」展覧会のエピローグは、力士の表現の移り変わりです。
江戸時代から人気が高かった相撲。浮世絵でも数々の力士が描かれてきましたが、明治時代には立体的な表現の錦絵も登場します。現在は、優勝力士を写した大きな額が、国技館に飾られています。
あまり知られていませんが、優勝額は近年までモノクロ写真に油絵具で色が付けたものが用いられてきました。大判のカラー出力が難しかった時代の名残ですが、独特な存在感は国技館の風物でもありました。62年間にわたって彩色を担当した佐藤寿々江さんが2014年に引退、現在はインクジェットプリントに代わっています。
エピローグ現在の
東京都江戸東京博物館も外国人が多く訪れる人気スポットですが、本展を訪れた外国人観光客に最も人気があるのは、ページ最上部でご紹介している高級ガラス絵との事。昔も今も、外国人が求める「日本らしいイメージ」は、あまり変わっていないようです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年10月14日 ]■浮世絵から写真へ に関するツイート