グラフィックが印象的な本展、まずは日独交流の端緒となった、1861年の「日本・プロイセン修好通商条約」の紹介からです。
当時は統一国家としてのドイツが成立する前。ドイツ語圏諸国でオーストリア帝国と並んで有力だったプロイセン王国が、他の列強と同様の通商条約締結を求めて日本に派遣したのがオイレンブルク伯爵でした。日本側は老中の安藤信正が窓口になりました。
来日したオイレンブルク使節団は、将軍に対してさまざま贈り物を持参してきました。展示されているプレートは写真のように見えますが、実は白磁の板。裏から光を当てると凸凹で刻まれた風景が現れるという、凝った芸術品です。
使節団は帰国の際に「源氏物語」をはじめ、様々な日本みやげを持ち帰りました。展示されている《月王乙姫物語絵巻》は、欧州に現存するこの時代の絵巻では、かなり状態が良い部類に入ります。
「日本・プロイセン修好通商条約」の資料などドイツから来た使節団には画家も同行していました。ヴィルヘルム・ハイネは下田や鎌倉などの風景画や歴史画などを制作。寺子屋や刑場の絵もあり、ドイツ人が日本の何に興味を持っていたのかが分かります。
逆に日本人の絵師も、初めて見たドイツ(プロイセン)人の姿を描写。一応、他の欧米人とは描き分けているものの、軍艦の内部構造を紹介する珍しい浮世絵も含めて、買い手である市井の人々の興味をひくように描かれています。
ドイツ人が描いた日本と、日本人が描いたドイツ人幕府は1862年に欧州に使節団(竹内使節団)を派遣。英仏などと交渉を行った後に、プロイセンも訪問しました。
本展の目玉のひとつが、徳川家茂が使節団に持たせた信任状。彼らが正式な使節団である事を国際法に則って記した文書です。金箔入りの豪華な紙に「源家茂」と記した将軍の花押、「経文緯武」の印が押されています。
プロイセンの人々が日本人を見たのも、もちろん初めて。頭に笠、腰には二刀、羽織袴に草履といった出で立ちの使節団の姿を報じた風刺画や、王宮で国王に謁見した際の新聞なども展示されています。
豪華な《徳川家茂が竹内使節団に託したプロイセン国王宛信任状》開国以降、日本はドイツから多くを学びました。日本からの留学生やドイツからのお雇い外国人などの交流を経て、日本は急速に近代化。日清戦争の頃から中国市場をめぐって両国の利害は対立するようになります。
第一次世界大戦で日本はドイツに宣戦布告。青島のドイツ軍基地を攻撃し、4689名の捕虜が日本へ送られました。ただ、収容所内では演奏会や演劇会が行われていたように、国際的な条約に従って捕虜を扱った事もあり、日独の友好関係が大きく損なわれる事はありませんでした。
そして時代は昭和へ。発足したばかりのヒトラー政権は当初は満州国を認めようとせず、必ずしも日独の方向は一致していませんでしたが、1938年になると両者の思惑は一致。1940年に日独伊三国同盟が締結され、最悪の道へ進みだす事となります。
会場最後は戦後の両国。エピローグには、明治時代に海岸で難破したドイツ商船の船員を島民が救助し、日独友好の証とされた宮古島の資料なども紹介されています。
第一次世界大戦以降は第二会場で紹介近隣諸国との関係から「過去の問題」への取り組みについて比較される事が増えた日独両国。公式図録に「「過去の問題」への取り組み ─ 日独比較史の可能性」と題する、興味深いコラムが掲載されています(この項の執筆は東京大学大学院教授の石田勇治氏)。
ドイツは実は国として正式にはニュルンベルク国際軍事裁判を受け入れていませんが(!)、公訴時効を廃止して国内刑法に基づく裁判を続けています。この点だけでも、サンフランシスコ平和条約締結とともに早々と極東国際軍事裁判(東京裁判)を受け入れた日本とは大きな違いがあります。
一方が善で他方が悪という単純な論議には与しませんが、残っているのは70年前の指導者の問題ではなく、現在を生きる私たちの課題である事は間違いありません。かなり考えさせられる企画展です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2015年7月8日 ]