20世紀を代表するフランスの巨匠、アンリ・マティス(1869–1954年)。生涯を鮮やかな色彩と光の探求に捧げ、モダン・アートの誕生に決定的な役割を果たしました。
世界最大規模のマティス・コレクションを所蔵する、ポンピドゥー・センターが全面的に協力。日本では約20年ぶりとなる大規模な回顧展が、東京都美術館で開催中です。
東京都美術館「マティス展」会場入口
展覧会はほぼ時代順、8章構成です。
当初は法律家を目指していたマティス。後に自分の天職は画家であると定め、パリ国立美術学校でギュスターヴ・モローに師事します。
マティスは1904年夏にポール・シニャックの招きでサントロペを訪問しました。シニャックの筆触分割技法を試みた《豪奢、静寂、逸楽》は、日本初公開の作品です。
《豪奢、静寂、逸楽》1904年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
《豪奢、静寂、逸楽》の3年後に描かれたのが《豪奢I》です。田園の情景は単純化され、平面的な空間構成が目を引きます。
この作品はサロン・ドートンヌに出品され、抽象や未完成作品とみなされたり、装飾的であるとして称賛されたりと、議論を呼びました。
《豪奢I》1907年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
第一次世界大戦中では、ふたりの息子が徴兵されたマティス。ひとり残された悲しみをぶつけるように、革新的な造形上の実験を推し進めました。
この時期の作品には、繰り返し窓が描かれます。《金魚鉢のある室内》は、セーヌ川を臨むアトリエ空間を描いた作品。窓は外界に向けて開放され、2つの領域が混ざって「統一する全体」をつくっています。
(右手前)《金魚鉢のある室内》1914年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
1920年代、マティスはニースに居を構えます。以前より小さいカンヴァスで、肖像画や室内画、風景画を描くようになりました。
この頃の重要なモチーフが、イスラムのスルタンに仕える女性オダリスクです。フランス人のモデルをイスラム女性に扮装させ、劇場のようにしつらえたアトリエで制作。空間に裸婦を配置し、造形的な実験を続けました。
《赤いキュロットのオダリスク》1921年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
1930年代にアメリカやオセアニアを訪問したマティス。新しい環境に触れながら、造形上の探求をさらに進めていきます。
《夢》のモデルになったのは、最晩年までマティスに付き添ったリディア・デレクトルスカヤです。組んだ両腕に頭をのせたうつ伏せのポーズは、以後、マティスが好んで取り上げるようになりました。
《夢》1935年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
第二次世界大戦がはじまり、ニースに空爆の危機が迫ると、マティスは近郊の丘の町であるヴァンスに転居。のちに「ジャズ」として出版される切り紙絵の連作も、この地で制作されました。
《赤の大きな室内》は、マティスがヴァンスで描いたアトリエのシリーズを締めくくる大作です。絵画、テーブル、敷物などが、コントラストをあらわにしながら、それぞれ対で配置されています。
《赤の大きな室内》1948年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
マティスは1930年代から習作のための手段として切り紙絵を手掛けていましたが、40年代になると重要度が増していきました。
1943年から46年にかけて、マティスは20点の切り紙絵を制作し、これをもとに画文集『ジャズ』を出版。タイトルは切り紙絵の即興性を強調したもので、明るく彩色された切り紙が、水の中や空を舞うように繰り広げられます。
《ジャズ》1947年 ポンピドゥー・センター/国立近代美術館
マティス最晩年の代表作が、ヴァンスのロザリオ礼拝堂です。建物の設計、装飾、什器から祭服、典礼用品まで、すべてマティスが手掛けました。
会場では、マティスが愛した午前11時に差し込む冬の光、そして1日の礼拝堂内の光の移ろいを、巨大スクリーンで紹介しています。
特別上映「アンリ・マティス ヴァンス・ロザリオ礼拝堂」 ©NHK
このような展覧会では、しばしば「マティス周辺の画家」の作品が大量に出展、という場合もありますが、本展は全ての作品がマティスによるもの。文字通り、マティスに包まれる空間で楽しむことができます。
巡回はせずに、東京だけでの開催です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2023年4月26日 ]
Centre Pompidou, Paris, Musée national d’art moderne-Centre de création industrielle