千葉県松戸市の松戸市立博物館で、同市が有する美術コレクションを紹介する展覧会が開催中です。
松戸市によるコレクションの二本の柱である「松戸に生まれた、あるいは住んだ作家の作品」と「かって松戸にあった千葉大学工学部とその前身である東京高等工芸学校の関係者の作品」に沿って、さまざまな作品・資料が並びます。
「松戸のたからもの 松戸市の美術コレクション」会場の松戸市博物館
会場の前半は、松戸ゆかりの作家から。まずは洋画家の板倉鼎・須美子夫妻をご紹介しましょう。
板倉鼎(1901-1929)は、小学校の時に松戸に居住。東京美術学校在学中には松戸の風景を描き、留学先のパリで独自のスタイルを確立しました。フランスのサロン・ドートンヌや日本の帝展に入選し、美術雑誌にも掲載されるなど将来を嘱望される画家でしたが、敗血症のため28歳で客死しています。
(左から)板倉鼎《篭の花》1928年6月頃 / 板倉鼎《黒椅子による女》1928年
板倉須美子(1908-1934、旧姓・昇)は、鼎の妻。ふたりは1925年に結婚し、翌年にハワイ経由でエコール・ド・パリ全盛期のフランスに留学します。
須美子は鼎の手ほどきで油彩画を始めますが、ハワイの思い出を描いた<ベル・ホノルル>シリーズなどで非凡な才能を発揮。サロン・ドートンヌに3年連続入選し、藤田嗣治からも高く評価されました。
鼎の急逝後、幼い長女を連れて帰国するも、結核のため25歳で亡くなりました。その長女も、帰国後まもなく死去しています。
板倉須美子《ベル・ホノルル 26》1928~29年頃
版画家の奥山儀八郎(1907-1981)もご紹介しましょう。現在の山形県寒河江市に生まれ、小学校卒業後に上京。働きながら版画制作をはじめ、日本毛織(ニッケ)の広告部では版画によるポスターを制作。斬新なスタイルで「ニッケのギ8」として一世を風靡しました。
ニッケを退社した後は、日本の伝統的な木版画の復興にも乗り出し、抒情あふれる風景画などを制作。松戸には1954年に自宅兼工房を開設しています。
(左から)奥山儀八郎《ニッケ毛製品》1931年頃 / 奥山儀八郎《ニッケ開店3周年》1931年 / (右端)奥山儀八郎《丸ビル角 ニッケ》1931年頃
後半は、東京高等工芸学校の関連作品です。同校は、産業に結びついた美術を教える官立学校として東京に設置されましたが、東京大空襲で被災し、松戸に移転。千葉大学工学部となり1964年に千葉市に移るまで、約20年間、松戸でデザイン教育が行われました。
「型而工房」は、1928年に同校の講師だった蔵田周忠を中心に結成された家具の研究グループ。後に学生だった豊口克平や剣持勇が加わり、日本の住まいにあった家具が考案されました。
(左手前)型而工房《肘掛椅子》1930年頃 / (その右奥)型而工房《洋服箪笥》1930年頃
剣持勇(1912-1971)は、東京高等工芸学校木材工芸科卒業後、国立のデザイン指導機関である工芸指導所に入所。1955年にフリーランスとなり、剣持勇デザイン研究所を設立。東京オリンピックではデザイン委員、日本万国博覧会協会ではディスプレイ顧問を務めました。
1966年に竣工し、戦後のモダニズム建築の代表的な作品とされる国立京都国際会館(設計・大谷幸夫)では、インテリアを担当。《安楽椅子OM5049》《テーブルOM2015》は、今でも同会館で使われています。
(手前のテーブル)剣持勇デザイン研究所《テーブルOM2015》1967年(デザイン) / (奥のソファ)剣持勇デザイン研究所《安楽椅子OM5049》1967年(デザイン)
最後にご紹介するのは、グラフィックデザイナーの大橋正(1916-1998)。高等工芸の工芸図案科では在学中から商工省工芸展覧会で入選を重ねるなど、早くから頭角を表していました。
よく知られているのは戦後の仕事です。明治製菓や野田醤油(現・キッコーマン)などの仕事を数多く手がけ、長きに渡って時代を彩りました。
大橋正の作品
松戸市は現在、市立の美術館を持っていないため、市が所蔵している美術作品がまとめて披露されるのは、この松戸市立博物館や松戸市戸定歴史館での展覧会が中心です。開催も毎年ではなく不定期なので、貴重な機会といえます。
失礼ながら気楽な気持ちで足を運んだのですが、想像以上の充実ぶりです。松戸市民はもちろん、近代美術や家具デザインに興味がある方なら、市外や県外の方にもぜひおすすめしたい展覧会です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年9月22日 ]