京都生まれの建築家、白井晟一(1905~1983)。ドイツで哲学を学び、帰国後に独学で建築の道に進むという異色の経歴の持ち主です。
初期から晩年までの白井建築や、その多彩な活動の全体像を紹介する展覧会が、白井が設計した渋谷区立松濤美術館で開催中です。
渋谷区立松濤美術館「白井晟一 入門 第1部/白井晟一クロニクル」会場入口
展覧会は序章「建築家となるまで」からスタートします。
白井晟一は京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科卒。ドイツには4年間留学し、さまざまな文化人とも出会うなど、大いに刺激を受けて帰国しました。
《学生ノート:武田五一・本野精吾教授講述「建築意匠」》井上俊一 記述 1910~1920年頃 京都工芸繊維大学美術工芸資料館蔵
第1章は「戦前期 渡欧をへて独学で建築家へ」。帰国後、義兄の日本画家・近藤浩一路の住宅設計に関わった事を期に、建築の道に進む事となります。
近藤を通じて、軽井沢の別荘の設計を依頼してきたのが、中央公論社社長の嶋中雄作でした。嶋中は白井の設計を気に入り、自邸や他の別荘の設計も白井に任せました。
《嶋中山荘(夕顔の家)》長野、北佐久郡軽井沢町(現存せず)1941年
第2章は「1950~60年代 人々のただなかで空間をつくる」。白井は戦時中、義兄の近藤とともに荷物を秋田に疎開させていた事があり、その縁で秋田でさまざまの作品を設計しています。
「秋ノ宮村役場」は秋田での2作目の仕事で、雄大な切妻屋根と深い軒が印象的です。道路拡張で取り壊される予定でしたが、曳家で移築されて現存しています。
《秋ノ宮村役場》秋田、雄勝町秋ノ宮→湯沢市秋ノ宮(稲住温泉敷地内、移築、現存)1950~51 (手前)「秋ノ宮村役場 1/50模型」制作者:岡村安葵 制作:京都工芸繊維大学 木村・松隈研究室 2010年 所蔵:京都工芸繊維大学
第3章は「1960~70年代 人の在る空間の深化」。日本全体が急速な経済成長を遂げていったこの時期、白井も精力的に活動の場を拡げていきます。
尻別山寮は、札幌近郊に建てられた製薬会社のレクリエーション施設です。白井の長男がヨーロッパ留学中に社長と知り合った事で実現しました。
《尻別山寮 模型》北海道、虻田郡(現存)1971~72年 「尻別山寮 模型」制作:柿沼守利 1971年 白井晟一建築研究所(アトリエNo.5)蔵
親和銀行東京支店は、銀座の三原橋にあった銀行の社屋。佐世保にある新和銀行の2代目頭取で、運輸大臣と大蔵大臣を歴任した北村徳太郎からの依頼で設計されました。
白井はこの後も親和銀行の仕事を手掛け、親和銀行本店は建築年間賞、日本建築学会賞、毎日芸術賞を受賞しています。
《親和銀行東京支店》東京、中央区(現存せず)1962~63年 「親和銀行東京支店 1/50模型」制作:上村卓大(カミムラ造形サービス)監修:岡﨑乾二郎 2021年
終章は「1970~80年代 永続する空間をもとめて」。晩年に白井は、ふたつの美術館を手がけました。ひとつは渋谷区立松濤美術館、もうひとつは静岡市芹沢銈介美術館です。
染色家の芹沢銈介の作品などを収める静岡市芹沢銈介美術館は、大地に横たわるような平屋建て。木や石など天然素材が多用されています。建物と芹沢の作品はとてもマッチしていますが、両者の間にはアーティスト同士ならではの葛藤があった事も知られています。
《静岡市芹沢銈介美術館(石水館)》静岡、静岡市(現存)1979~81年
白井には実現しなかった建築計画がいくかありますが、もっとも有名なのが「原爆堂計画」です。
丸木位里・俊夫妻による《原爆の図》を展示する美術館の設立構想を知った白井が、他の仕事を断ってまで自発的に取り組んだもの。正方形の本館は水に囲まれ、地下道でエントランス部とつながります。
《原爆堂計画》実現せず 1954~55年
白井は1983年、建設途中だった京都の現場で倒れ、その3日後に78歳の生涯を閉じました。
本展は2部構成で、2022年1月4日からの第2部では松濤美術館そのものをクローズアップ。白井がイメージした当初の姿に近づけて展示室が公開されるとの事、こちらも楽しみです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年10月22日 ]