一貫して墨による芸術表現に取り組み、国内外で高く評価されている篠田桃紅(1913-2021)。初期から晩年までの代表作と資料、約80点を通して、その表現の変遷を体系的に展観する展覧会が、そごう美術館で開催中です。
そごう美術館「篠田桃紅展 とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち」会場入口
国内外のホテルや会議場など、さまざまな施設で作品を目にすることがある篠田桃紅。会場はプロローグに続き4章構成で、時代順に創作の軌跡を辿ります。
入口には篠田桃紅の写真と言葉が
1913(大正2)年、満洲の大連で生まれた篠田桃紅。父の転勤で東京に転居、父の手ほどきで書をはじめたのは5歳からです。以後は独学で書を極め、1940年に初めての個展を銀座・鳩居堂で開催。当初から自由な作品で、書道新聞には「根無し草」と評される存在でした。
終戦の後に疎開先から東京に戻ると、墨による抽象を本格的にスタート。書の狭い観念に窮屈さを感じていた桃紅は、1950年からは日本の前衛書を紹介する海外展にも出品するようになり、ついに書家の経歴を捨てて単身渡米する事となります。
第1章「文字を超えて(渡米以前) -1955」 (左から)篠田桃紅《詩》1952年 岐阜現代美術財団 / 篠田桃紅《山上のひととき》1952年 鍋屋バイテック会社
第1章「文字を超えて(渡米以前) -1955」 (左から)篠田桃紅《星霜》1954年 岐阜現代美術財団 / 篠田桃紅《墨》1955年 鍋屋バイテック会社
1956年、43歳の桃紅は、文字を解体した墨の線の作品約70点を携え、独りアメリカへ。
ジャクソン・ポロックやウィリアム・デ・クーニングなどの抽象表現主義絵画の勢いが最盛期を迎えていたニューヨーク。自分の作品がどのように評価されるのか、大胆な挑戦でした。
アメリカでは58年までの約2年間、ニューヨークを拠点にして、欧米の主要各地で精力的に作品を発表。その創作は現地の新聞でも高く評価され、墨による自由な抽象造形への道が大きく開かれていきました。
帰国後も、しばしば海外で個展を開催。ポロックやロスコ、岡田謙三らを手掛けたニューヨークのベティ・パーソンズ・ギャラリーで1965、68、71、77年と4度の個展を開催した事で、海外での評価は確実なものとなりました。
第2章「渡米 ― 新たなかたち 1956-60年代」 (左から)篠田桃紅《見ぬかたち9》1961年 鍋屋バイテック会社 / 篠田桃紅《Four Seasons A》1956年以前 鍋屋バイテック会社
第2章「渡米 ― 新たなかたち 1956-60年代」 (左から)篠田桃紅《「日南市文化センター陶壁・結ぶ」下図》1961年 鍋屋バイテック会社 / 篠田桃紅《薔薇》1956年 鍋屋バイテック会社
アメリカでの経験で、自らが進む道に確信を得た桃紅。日本の湿潤な風土こそ墨に相応しいと再認識し、墨の重なりやにじみなど、墨が持つ可能性の追求が進みます。
エネルギッシュな筆さばきが影をひそめる一方で、日本の伝統に裏付けられた優美で繊細な作品が増加。朱の赤が重要な要素として現われてくるのも、70年代後半からです。
縦に走る力強い線を連続させて配置した《祭り(後)/祭りの後》と《熱望》は、この時代の画風を表現している作品として紹介されています。
一方で、執筆の分野でも才能を見せ始めた桃紅。1979年には初随筆集『墨いろ』が日本エッセイスト・クラブ賞を受賞するなど、活動は多岐にわたるようになりました。
第3章「昇華する抽象 1970-80年代」 (左から)篠田桃紅《秘抄》1971年 岐阜現代美術財団 / 篠田桃紅《月読み》1978年 岐阜現代美術財団
第3章「昇華する抽象 1970-80年代」 (左から)篠田桃紅《祭り(後)/祭りの後》2000年 岐阜現代美術財団 / 篠田桃紅《熱望》2001年 岐阜現代美術財団 / 篠田桃紅《火》2000年 岐阜現代美術財団
1990年代以降、桃紅の創作はさらに洗練の度を増していきます。華やかな装飾性を保ちながらも、要素を徹底的に整理。フォルムが際立つ一方で、余白の重要性も増し、深遠な空間が醸成されていきました。
2000年代に入ると、対を成す《永劫》と《一瞬》や、三部作《遊》《語》《想》など、金箔や銀箔、プラチナ箔を麻紙の上に貼り、金地や銀地を背景にする作品が中心に。
作風は穏やかながらも、墨色は際立ち、桃紅ならではの作品世界が成立していきました。
第4章「永劫と響き合う一瞬のかたち 1990年代以降」 (左から)篠田桃紅《遊》2010年 鍋屋バイテック会社 / 篠田桃紅《語》2010年 鍋屋バイテック会社 / 篠田桃紅《想》2010年 鍋屋バイテック会社
第4章「永劫と響き合う一瞬のかたち 1990年代以降」 (左から)篠田桃紅《一瞬》2012年 鍋屋バイテック会社 / 篠田桃紅《百》2012年 鍋屋バイテック会社
会場の最後には他の仕事や資料も展示されています。1960年代から70年代には、日南市文化センター(丹下健三設計)の緞帳や陶壁、明治座(吉田五十八設計)の緞帳など、建築分野でも旺盛に活動。
1963、4年から始めたリトグラフは、版画摺り師の木村希八とともに長きに渡って協働。木村が亡くなった2014年まで、約50年にわたって1000点を超える作品を生みました。
リトグラフの仕事
世界を舞台に活躍した日本人女性アーティストの草分けといえる存在。キャリアを重ねた後も墨の可能性に挑み続けたその姿はとても凛々しく、同じ日本人として誇らしく思っていました。
展覧会の開幕を直前に控えた3月1日、桃紅は107歳で死去。墨とともに歩んだ創作の全貌をお楽しみください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年4月2日 ]