明治9(1876)年、久留米市で生まれた吉田博。油彩画や水彩画でも多くの名作を残していますが、本展は画業の後期に新境地を拓いた木版画を紹介するものです。
国外で早くから紹介され、故ダイアナ妃や精神科医フロイトも魅了した博ならではの作品世界を展観します。
会場の東京都美術館
早くから画才に長けていた博。17歳で上京し、小山正太郎の画塾・不同舎で「絵の鬼」と称されるほど風景写生に没頭しました。
当時の洋画壇は、フランス帰りの黒田清輝が率いる白馬会が台頭。反発した博はアメリカに渡って自作を売りながら各地を歴訪し、帰国後は官展と太平洋画会で活躍しました。
博と木版画との出会いは遅く、大正9(1920)年です。44歳になるこの年に、渡邊庄三郎のもとで《明治神宮の神苑》の下絵を手がけた事がきっかけです。
プロローグでは木版画制作以前の作品も紹介されています。
(左奥から)《上高地の夏》大正4(1915)年 九州大学大学文書館 / 《穂高山》大正期
関東大震災後、被災した太平洋画会の仲間を救うため、博は渡米。ただ、彼らの油絵はほとんど売れず、反応が良かったのは木版画ばかりでした。
帰国した博は彫師と摺師を雇って、私家版の木版画制作を開始。『米国』シリーズを完成させました。
《米国シリーズ グランドキャニオン》大正14(1925)年
私家版木版に着手した翌年の大正15(1926)年、博は41点もの木版画を制作しました。
「帆船」の連作は、同じ版木で色を替える「別摺」の技法で、時間とともに変化する自然の姿を見事に表現しています。
《瀬戸内海集 帆船》より 大正15(1926)年
木版画は木を使うため大きさに制約がありますが、大正15(1926)年、山桜の大木が売りに出されている事を知った博は、特大版の制作に乗り出します。
伝統的な木版画では湿らせた和紙を用いるため、和紙の伸縮を計算に入れて色を合わせますが、特大版ではその経験を活かす事が出来ません。博は苦労を重ねながらも、当時としては並外れた大画面の木版画を完成させました。
(左から)《溪流》昭和3(1928)年 / 《雲海 鳳凰山》昭和3(1928)年
「山岳画家」と呼ぼれるほど、山の絵を数多く描いた博。富士山にも何度も出かけており、『冨士拾景』シリーズなど、富士を主題にした数々の作品を残しました。
博は登山そのものを好んでいたため、実際に山に出かけて作品を描きました。山頂から、山腹から、麓からと、さまざまな構図で山を描けるのも、登山家ならではといえます。
《冨士拾景 河口湖》大正15(1926)年
博は17歳で上京してから亡くなるまで、55年余りを東京で暮らしましたが、東京を描いた作品はあまり多くありません。
『東京拾ニ題』は、過ぎし日の東京の姿を表現したシリーズ。《亀井戸》は88度も摺りを重ねた渾身の作品です。
《東京拾二題 亀井戸》昭和2(1927)年
博の写生帖には牛馬や鳥、花々などが描き残されており、博が身近ないきものにも目を向けていた事が分かります。
シリーズ『動物園』では、鸚鵡(オウム)の羽毛に空摺(エンボス加工のように凸凹を出す手法)を多用するなど、版画ならではの表現で対象に迫ります。
(左から)《動物園 きばたん あうむ》大正15(1926)年 / 《動物園 くるまさか あうむ》大正15(1926)年
旅を好んだ博。夏場は旅先でスケッチや水彩・油彩画を描き、秋から春にかけてアトリエで木版画を制作するのがお決まりのパターンでした。
昭和の初めに完成したシリーズ『日本南アルプス集』と『瀬戸内海集 第ニ』も、しばしば訪れた山や海を取材したものです。
《瀬戸内海集 第二 潮待ち》昭和5(1930)年
博は昭和5(1930)年にインドを訪問。日中は炎天下でスケッチを重ね、夜汽車で睡眠を取るという強行軍の末、帰国後に32点のシリーズ『印度と東南アジア』を完成させました。
明るい景色を表現するため、淡色を何度も摺り重ね、幻惑的な世界をつくりあげました。
(左から)《印度と東南アジア タジマハルの朝霧 第五》昭和7(1932)年 / 《タジマハルの夜 第六》昭和7(1932)年
昭和9(1934)年、博は東京・下落合に新居を建てて移住しました。この広大な洋館には、戦後に進駐軍関係者が集う事になります。
この頃に、京都と奈良を取材した『関西』と、さまざまな桜を描いた『櫻八題』を制作しています。
(左から)《櫻八題 弘前城》昭和10(1935)年 / 《櫻八題 鐘楼》昭和10(1935)年[展示期間:1月26日~2月28日]
昭和11(1936)年、博は韓国と中国を訪問。のちに『北朝鮮・韓国・旧満洲』と名づけられる5点連作になりました。
《大同門》は平壌の風景。堂々とした建物が目を引きます。
(左奥から)《北朝鮮・韓国・旧満州 昌慶宮》昭和12(1937)年 / 《北朝鮮・韓国・旧満州 大同門》昭和12(1937)年
60代になっても博の制作意欲は健在です。戦時の風潮もあり、寺社を中心にしたいかにも日本的な風景の作品が目立ちます。
《陽明門》は実に96度摺の作品。おごそかな情景を丹念に描いています。
《陽明門》昭和12(1937)年
戦後、博の洋館は接収の対象になりましたが、博は画家にとってアトリエがいかに大切であるか、GHQを相手に直訴。博の名は戦前から米国で知られていた事もあって自宅は接収を免れ、後に進駐軍関係者が集う、さながらサロンのような場になりました。
博が戦後に新作として制作した版画は1点のみです。《農家》にはしみじみとした土間の一景が描かれています。
《農家》昭和21(1946)年
吉田博の展覧会は、このコーナーでも2016年の「生誕140年 吉田博展」(千葉市美術館)を紹介しましたが、卓越した技量は何度みてもうっとりするほど。事前予約不要で観覧可能です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年1月25日 ]