山形県米沢市に生まれた椿貞雄。上京後まもなく展覧会で岸田劉生の作品を見て感動し、自作を携えて劉生を訪ねました。その時の作品が、メインビジュアルになっている自画像。劉生も椿の力量を認め、ふたりは強い絆で結ばれる事となります。
劉生が中心となって結成された草土社の有力メンバーとなった椿。この頃の作品は、劉生が研究していたヨーロッパ古典絵画風の肖像画や、劉生の作品と全く同じ場所を描いた風景画など、共に行動し、劉生からの強い影響を受けていたことを感じさせます。
第1章「出会い」劉生が宋・元時代の絵画や浮世絵など、東洋美術にも関心を示すようになると、椿も追随。東洋の伝統をふまえた上で、油彩による写実で表現する事は、後年に至るまで椿の大きなテーマとなりました。
ここにはちょっと珍しい展示もあります。劉生が描いた《狗をひく童女》と、それに触発されたような椿の《春夏秋冬図屏風(春)》が並び、さらに劉生が手本にした版本と、その版本のオリジナルである肉筆浮世絵も展示されています。浮世絵→版本→劉生→椿まで、ざっと300年。犬と童女のイメージが受け継がれていきました。
劉生は38歳で急死。椿は制作もままならないほど落胆しますが、周囲のすすめもあって渡欧。本場の油彩を見た事で、改めて「油彩による東洋の写実」に向き合う意思を固めます。
第2章「伝統へのまなざしと劉生の死」椿の代表的な画題のひとつが、冬瓜。冬瓜は南九州など暖かい地域で育つため、米沢育ちの椿は、劉生に教わるまで冬瓜を知らなかったそうです。
肺結核と診断された劉生が、戸外での制作を断念して静物画を描くようになると、椿も静物画へ。冬瓜のごろっとした量感と、表面に粉をふいた質感を確実に捉えるため、毎年冬瓜を買い集めては写生を繰り返しました。静物と周囲との関係にも気を配り、その表現には文人画から学んだ手法も取り入れています。
会場では椿の次女、夏子の作品も展示されています。夏子は芹沢銈介に師事して型絵染を制作、父と同じ国画会に作品を出品しています。
第3章「静物画の展開」最終章には家族を描いた作品など。子どもが一男三女、亡くなるまでに三人の孫にも恵まれた椿は、家族の肖像も数多く描きました。柔らかい肖像の家族の絵からは、周囲に優しく、誰からも愛された椿の人柄が伝わってくるようです。
昭和に入ると、富士山なども描いた椿。晩年には度々九州に出かけ、長崎や桜島も描きました。1957年に66歳で死去。病院に入院する日の朝、迎えの車が来る前に一気に描いた椿が絶筆となりました。
第4章「家族とともに」岸田劉生との関係から、劉生の周辺作家として紹介される事が多い椿貞雄ですが、油彩にきちんと向き合いながら東洋絵画の伝統表現に挑んでいったのは、椿ならではの個性といえるでしょう。他館への巡回はなく、
千葉市美術館だけでの開催です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2017年6月9日 ]■椿貞雄 に関するツイート