1890年代のデカダンスを象徴する、オーブリー・ビアズリー。ラファエル前派のエドワード・バーン=ジョーンズにその作品を絶賛され、19歳で画家の道へ踏み出しました。
当時のヨーロッパを席巻していたのが、ジャポニスム。ビアズリーもその影響を受け、初期の作品からは日本の近世美術を参考にした作例も見受けられます。
「バーン=ジョーンズほど金のかからないバーン=ジョーンズ」を求めていた出版社の目にとまったビアズリー。「アーサー王の死」の挿画などで、徐々に注目を集めていきました。
初期の作品などビアズリーの名を世界に知らしめたのが、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」。英語版「サロメ」の挿画に起用されたビアズリーは背徳の世界を妖艶に描き、社会に大きな衝撃を与えました。
実は、ワイルドはビアズリ―の挿画に不満をもらしています。ワイルドを揶揄するようなカットが見られる事もありますが、戯曲より挿画の方が有名になったためとも言われています。
英訳版「サロメ」に使われたのは13点ですが、展覧会では使われなかった作品も含め17点が展示されています。
オーブリ―・ビアズリー《オスカー・ワイルド著「サロメ」の挿画のためのドローイング集》時代の寵児となったビアズリーですが、突然の試練が襲います。それは「男色」。オスカー・ワイルドが男色の罪で有罪になると、ビアズリーも同じ嫌疑をかけられる悲運に見舞われました(実際のビアズリーは男色家ではありません)。
実力で悪評を乗り越えたビアズリーを襲った次の試練は「肺結核」。残念ながら、この試練に勝つ事はできませんでした。療養のために転地を繰り返しながら、新たな表現にも挑戦したビアズリーですが、1898年に死去。まだ25歳の若さでした。
ビアズリー自身が立ち上げた雑誌「イエロー・ブック」など日本で最初にビアズリーを本格的に紹介したのは、雑誌「白樺」。すでに没後12年経っていましたが、斬新な意匠は同時代の画家も強く刺激しました。水島爾保布、茂田井武、『月映』の三人(田中恭吉・藤森静雄・恩地孝四郎)など、ビアズリーの術中に嵌った画家は数えきれません。ビアズリーを失った欧州でもアラスター、ハリー・クラークら、その様式を踏襲した追随者が活躍しています。
さらに、その影響はデザイナー(当時は「図案家」)にも。山六郎や山名文夫はアール・デコにビアズリー風を合わせたデザインを展開。山名は後に資生堂に移り、唐草模様の包装紙に繋がっていきました。
第2章では、ビアズリーから影響を受けた日本の画家を中心に紹介されますビアズリーをスターの座に押し上げた「サロメ」ですが、その内容から英国では舞台上演が許可されませんでした。ビアズリーもオスカー・ワイルドも、公演を見る事なく没しています。
宇都宮美術館からの巡回展で、滋賀で2館目。この後は新潟(
新潟県立万代島美術館:4月29日~6月26日)、石川(
石川県立美術館:7月23日~8月28日)と巡回します。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年3月8日 ]■ビアズリーと日本 に関するツイート