展覧会のサブタイトルは「背く画家」。時に抗いながらも、しなやかに自らの道を進んだ青楓の足跡を、全3章で辿っていきます。
第1章は「因習に背く 図案から美術へ」。青楓は1880年(明治13)、京都生まれ。丁稚奉公に出されますが、封建的な関係を嫌って出奔。図案を描く仕事を始め、絵画や染織も学びました。
徴兵で召集されると、日露戦争では旅順攻防戦など、文字通り戦いの第一線に。死屍累々の忌まわしい体験から、戦争を憎む気持ちを強く持ちました。
兵役が終わると、遅れを取り戻すように画業に没頭。パリ留学で洋画の基礎を学び、帰国後は東京へ。人を介して夏目漱石と出会うと、漱石は青楓の飾らない気質を好み、親しく付き合うようになりました。
漱石は青楓に著作の装幀を依頼するなど、物心両面で青楓を支援しました。逆に、青楓は漱石に油絵を教えた事もあります(ただ、漱石の性に合わなかったようで、すぐやめてしまいました)。1916年(大正5)に漱石が亡くなると、青楓は葬儀で号泣したと伝わります。
第2章は「帝国に背く 社会派の画家」。1914年(大正3)、青楓は文展の鑑査に反発し、石井柏亭らとともに二科会を設立。自宅に事務所を置くなど、中心的なメンバーとして活動します。
関東大震災後に移った京都で出会ったのが、マルクス主義経済学者の河上肇です。貧困や格差などの社会問題に目を向けるようになり、共産党に入党した河上を積極的に支援しました。
この時期の活動として注目されるのが、画塾の設立。若者から絵画の指導を求められたのを機に「津田青楓洋画塾」を設立し、最終的に約150名の塾生を抱えるほどに成長しました。洋画家の今井憲一、オノサト・トシノブらも門下生です。
マルクス主義への共感を強めた青楓は、格差を揶揄する《ブルジョワ議会と民衆の生活》を、さらに拷問で亡くなった小林多喜二をテーマにした《犠牲者》を制作。社会派としての立場を鮮明にします。
ただ、前者は官憲に押収され、現在では下絵が残るのみ。後者の制作中に青楓は逮捕され、半月あまりの取り調べを受ける事になりました。
青楓は勾留中に転向し、プロレタリアと決別。二科から脱会、画塾も閉鎖し、洋画断筆を宣言しました。
ちなみに《犠牲者》は逮捕の直前に隠されたため、間一髪で押収を免れました。戦後になってから発表され、現在は東京国立近代美術館の所蔵です。
第3章は「近代に背く 南画の世界へ」。洋画壇から離れた青楓は、伝統的な日本画の探究を進めます。いにしえの文人のように「私」を中心に据えた作品世界を展開します。
晩年の書の作品は、江戸時代の禅僧・良寛への私淑からです。青楓が良寛に関心を持ったのは、漱石と一緒に屏風を見てから。良寛の自筆歌集を手本に、自らも書にのめり込むようになりました。
良寛の歌や詩の本質が「耐え忍ぶ」ことにあると理解した青楓。良寛の生き様を、洋画断筆後の自分に重ねようとしたのかもしれません。
青楓が老衰で亡くなったのは、1978年(昭和53)。明治から昭和の戦後まで時代に対峙し続けた、98歳の生涯でした。
関連資料も含め約250点で、その歩みを丹念に紹介する充実した展覧会です。練馬区立美術館のみでの開催になります。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2020年3月4日 ]