幕末から明治にかけて活躍した浮世絵師・豊原国周(1835~1900)。2025年でちょうど生誕190年になります。国周は迫力ある役者絵や繊細な美人画で人気を博し、月岡芳年や弟子の楊洲周延らと競いました。豪放な性格で、大酒飲み、借金、頻繁な引っ越しなどの逸話も多く残っています。
役者絵の名品に加え、美人画、肉筆画、武者絵、風景画までを紹介し、その画業の全貌に迫る過去最大級の回顧展が、太田記念美術館で開催中です。
太田記念美術館「生誕190年記念 豊原国周」会場
展覧会の冒頭は、国周の代表作といえる「具足屋版役者大首絵」です。明治2年(1869)3月から出版された全22枚の役者大首絵シリーズで、鮮やかな背景と画面から飛び出すような構図が特徴。その作風は、師・歌川国貞(三代豊国)の「錦昇堂役者大首絵」を想起させます。
(右)豊原国周《加古川清十郎 尾上菊五郎》明治2年(1869)5月 個人蔵[展示期間:2/1~2/24]
豊原国周は天保6年(1835)、京橋三十間堀七丁目生まれ。俗称は八十八。最初は押絵師の一遊斎近信に弟子入りし、のちに三代豊国に入門。安政元年(1854)頃から本格的に浮世絵を制作しはじめました。
初期の美人画《春の景花遊図》は、飛鳥山と思われる高台で、満開の桜の下、女性たちが幔幕の前で花見を楽しむ様子を描いたもの。人体表現や風景描写から、若き国周の高い技量がうかがえます。
豊原国周《春の景花遊図》安政元年(1854)11月 個人蔵[展示期間:2/1~2/24]
元治元年(1864)、師の歌川国貞(三代豊国)が79歳で死去。広重、国芳に続く浮世絵界の重鎮の死は、世代交代を加速させました。師亡き後、国周は特に役者絵で頭角を現していくこととなります。
《歌川国貞(三代豊国)死絵》は、師・国貞の死に際し、国周が描いた死絵。穏やかな表情の国貞の姿からは、その人柄がしのばれます。死絵を任されたことからも、国周が一門で信頼されていたことがわかります。
豊原国周《歌川国貞(三代豊国)死絵》元治元年(1864)12月 太田記念美術館蔵[展示期間:2/1~2/24]
慶応4年(1868)に明治時代が始まると、翌年から版元・具足屋嘉兵衛より役者大首絵シリーズが刊行。力強い相貌表現が特徴で、国周の代表作となりました。
《写真所 佐々木源之助 沢村訥升》は、湿板写真の役者ブロマイドを意識した作品で、時代の流れを取り入れた表現がうかがえます。
豊原国周《写真所 佐々木源之助 沢村訥升》明治3年(1870)4月 個人蔵[展示期間:2/1~2/24]
また、《四人剣見越之魁》は、4人の人気役者を描いた作品。青龍、朱雀、白虎、玄武の四神になぞらえ、「千里虎松(市川団十郎)」「荒磯亀次(市川左団次)」「朱雀鳥七(尾上菊五郎)」「黒雲龍吉(中村芝翫)」といった役名風の名前が記されています。
背景には、三代歌川広重が描いた明治8年に架け替えられたばかりの江戸橋も登場し、時代の変化を伝えています。
豊原国周/三代歌川広重《四人剣見越之魁》明治8年(1875)4月 個人蔵[展示期間:2/1~2/24]
明治10年(1877)の西南戦争は、社会に大きな衝撃を与えました。翌年には歌舞伎化され、九代目市川団十郎が「西条高盛」を演じて空前の大ヒット。西南戦争を題材とした浮世絵も流行しました。
《西南雲晴朝東風》は、本営に集まる老人や少年たちに、西条が国へ帰るよう説得する場面を描いた作品です。
豊原国周《西南雲晴朝東風》明治11年(1878)3月御届 個人蔵[展示期間:2/1~2/24]
また、九代目市川団十郎の活歴物推進や演劇改良運動により、歌舞伎は「高尚化」し、明治20年(1887)4月、鳥居坂の井上馨邸で史上初の天覧歌舞伎が開催されました。
《与衆同楽》は、「勧進帳」の場面を描いた作品。極度の緊張の中で演じる団十郎や菊五郎の様子が伝わってきます。
豊原国周《与衆同楽》明治20年(1887)3月御届 早稲田大学坪内博士記念演劇博物館[展示期間:2/1〜2/13]
【写真】
浮世絵木版画のイメージが強い国周ですが、晩年には多くの肉筆画も制作しました。
《墨堤観花図》は、満開の桜の下を歩く武家風の女性たちを描いた作品。帝国博物館総長の九鬼隆一の依頼により、シカゴ・コロンブス博覧会へ向けて制作された作品です。
豊原国周《墨堤観花図》明治26年(1893)頃 東京国立博物館蔵 [展示期間:2/1~2/24]
美人画では、24時間を題材にしたシリーズ「見立昼夜二十四時之内」を制作。江戸時代の「十二時」物の流れを汲むこの作品は、国周の代表作の一つです。
豊原国周《見立昼夜廿四時之内 午前十一時》明治23年(1890)9月印刷・10月出版 太田記念美術館蔵[展示期間:2/1~2/24]
明治33年(1900)7月1日、享年66歳で国周は死去。江戸以来の浮世絵を強く意識しつつ、最期まで第一線で制作を続けた生涯でした。
酒席で河鍋暁斎と大喧嘩した、大酒飲みの国周。他にも、借金が多く東京で2番目に破産宣告を受けたこと、117回も引っ越して「絵では北斎にかなわないが、引っ越しでは負けない」と豪語したことなど、ユニークな逸話も多く残っています。
あらためて、国周の画業を総覧できる貴重な機会となる本展。会期は前期と後期に分かれ、すべての作品が入れ替えとなるため、見逃せません。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2025年1月31日 ]