大正期から太平洋戦争が始まった激動の時代に活躍した写真家・安井仲治(1903-1942)。10代で関西の名門、浪華写真倶楽部の会員になると、卓越した作品で全国にその名が知られる存在に。温厚な人柄もあって人々に慕われましたが、38歳で病没しました。
安井の生誕120年を記念し、200点以上の作品でその全貌を回顧する展覧会が、東京ステーションギャラリーに巡回してきました。
東京ステーションギャラリー「生誕120年 安井仲治 僕の大切な写真」会場入口
安井仲治は1903(明治36)年、大阪生まれ。実家は豊かな商家で、中等学校在学中にカメラを買い与えられ、卒業後も家業の安井洋紙店に勤務しながら写真を続けました。
10代の末には関西の名門アマチュア写真団体、浪華写真倶楽部に入会。当時は絵画的な表現を目指す「芸術写真」がアマチュア写真家の間で高まっていましたが、安井は社会的な文脈も備えた作品も制作。《猿廻しの図》などの作品で高く評価され、20代前半にして同倶楽部の指導的立場になりました。
《猿廻しの図》1925年 / モダンプリント制作:2023年
1931(昭和6)年、ドイツからもたらされた「独逸国際移動写真展」で、マン・レイやモホイーナジなどによる前衛的な作品が大きな話題を呼びました。
日本、とりわけ関西の写真界では、それまでの「芸術写真」から「新興写真」へと表現の主潮が移行。安井も新技法を取り入れた実験的作品に取り組んでいきますが、単純に模倣するだけでなく、独自の写真表現も追求していきました。
(左から)《(警官)》1930年 / モダンプリント制作:2004年 渋谷区立松濤美術館 / 《メーデーの写真》1931年 / モダンプリント制作:2004年 渋谷区立松濤美術館
1930年代は日本の写真史における一つのピークといえる時代で、安井もさまざまな手法やスタイルを試みました。写真愛好家向けの雑誌も次々に創刊。安井も寄稿を重ねるとともに、写真展の審査員をたびたび務めて、写真界における存在は確固たるものになりました。
自邸の窓ガラスに止まった蛾を写した作品は、安井の代表作のひとつです。
(左から)《蛾(一)》1934年 / モダンプリント制作:2023年 / 《蛾(二)》1934年 個人蔵(兵庫県立美術館に寄託)
1930年代の安井は、私生活においてもさまざまな出来事に見舞われました。結婚して4人の子どもたちを授かるも、妹と弟、そして次男が死去。蛾や犬などの小さな生き物に向けられた目線は、こうした出来事も関係しているのかもしれません。
(左から)《犬》1935年 / モダンプリント制作:2023年 / 《微風》1937年 / モダンプリント制作:2004年 渋谷区立松濤美術館
1930年代半ばになると「新興写真」は退潮。一方でシュルレアリスムの理論を取り入れた「前衛」写真の存在感が強くなります。
前衛の動向を牽引した写真団体の中で、安井は浪速写真倶楽部と丹平写真倶楽部に所属し、表現者として、また指導者として前衛的な作品を主導していきました。
(左から)《海辺》1938年 個人蔵(兵庫県立美術館に寄託) / 《生》1938年 個人蔵(兵庫県立美術館に寄託)
1937年に日中戦争が始まると、アマチュア写真家たちの活動は狭まっていきますが、安井は戦時社会を生きた人々の姿を象徴的に捉えた作品を残しています。
「紀元二千六百年」という節目である1940年には、丹平写真倶楽部は紀伊白浜の大阪陸軍病院を慰問。「白衣勇士の家郷に送る写真」などが撮影されました。
(左から)《白衣勇士》1940年/モダンプリント制作:2004年 渋谷区立松濤美術館 / 《白衣勇士(着座)》1940年/モダンプリント制作:2004年 名古屋市美術館
1941年、安井は丹平写真倶楽部の有志とともに、ナチスドイツによる迫害から逃れ、神戸にたどり着いたポーランド系ユダヤ人を撮影。メンバー6名による連作として発表され、その一部は『アサヒカメラ』などにも掲載されました。
ただ、1941年の夏に視界がゆがむ症状を訴えて療養に。同年10月には病をおして講演に登壇しましたが、翌1942年に腎不全のため、38歳で亡くなりました。
(左から)《(流氓ユダヤ 子供)》1941年 個人蔵(兵庫県立美術館に寄託) / 《流氓ユダヤ 母》1941年 個人蔵(兵庫県立美術館に寄託)
戦前に早世したこともあって、安井の存在感は徐々に小さくなっていきましたが、1950年代に土門拳が高く評価。1970年代には再評価が始まり、森山大道が最大限の賛辞をおくったことで、その存在は新しい世代にも知られるようになりました。
とはいえ、大規模な展覧会としては没後100年の展覧会以来、20年ぶり。日本写真史に刻まれる巨人の全容を俯瞰できる、またとない機会です。愛知、兵庫と巡回し、東京展が最終会場です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2024年2月22日 ]