1960年代以降のデザイン界において、高く評価を受けている倉俣史朗(1934-1991)。従来の家具やインテリアデザイン製品には用いられなかった工業素材を使用するなど、そのアイデアから世界的に注目を集めた倉俣の回顧展が、世田谷美術館で開催中です。
「倉俣史朗のデザイン ― 記憶のなかの小宇宙」会場入口
デザイナーを志して桑沢デザイン研究所でデザインを学んだ倉俣は、1957年に三愛に入社。売り場の動線やショーケースなどの什器、値札札までさまざまなデザインと設計に携わりました。
1963年に銀座に開業した「三愛ドリームセンター」の仕事を機に倉俣は、インテリアデザインや住宅、オフィスといったジャンルを超えて、都市の商業空間のデザインを志します。
「倉俣史朗のデザイン ― 記憶のなかの小宇宙」会場風景
1965年11月にクラマタデザイン事務所を設立した倉俣は、竹橋にあるパレスサイドビルや地方都市の飲食店やサインを手掛けたほか、オリジナル家具の制作を行います。
いくつもの引き出しが全面に設えられた《引出しの家具》をはじめ、依頼されたものでもなく、使用される予定のないデザインを具体化していきます。また、ものを見せることや空間のあり方を探り、什器の素材に当時一般的だった木材でなく、透明アクリルを使用。ケースの中がすべて透明になることで、商品が宙に浮いているかのような効果をもたらしました。
(左から)《引出しの家具》1967年 富山県美術館蔵 / 《ピラミッドの家具》1968年 株式会社イシマル蔵
実際の用途だけでなく、人間と家具との間に対話を生み出すものも試行していた倉俣。いくつもの引き出しがならぶ《引出しの家具》シリーズでは、中に入っているものへの期待を導かせる家具を生み出しました。
第2章「引出しのなか 1969-1975」展示風景
独立して4年目の1969年、ファッション企業のエドワーズ本社ビルの設計を行います。倉俣にとって初めての建築設計の仕事の中、特に注目されたのはインテリアデザインを手掛けたショールームでした。
透明アクリルのチューブのなかに蛍光灯を仕込み、そこに透明アクリルの棚を渡し衣服を陳列。椅子やテーブル、ランプからは、倉俣がいかに光の存在の仕方を意識していた窺い知ることができます。
第2章「引出しのなか 1969-1975」展示風景
自らのイメージに合わせて、職人とともに試行錯誤しながら新たな素材を取り入れていた倉俣。板硝子を使用し、最小限の構造で成り立たせた《硝子の椅子》や椅子の輪郭線を建築素材のエキスパンド・メタルでなぞったメッシュの網目が輝く《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》なども制作します。
1981年、親交のあったエットレ・ソットサスの誘いから、イタリアを中心に世界のデザイン・建築に影響を及ぼしたデザイン運動・メンフィスに参加をします。メンフィスは倉俣にとって、モダンデザインから解放され、国際的に活躍する重要な発表の場となります。
第3章「引力と無重力 1976-1987」展示風景
(左から)《トワイライトタイム》1985年 石橋財団アーティゾン美術館 / 《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》1986年 富山県美術館 / 《シング・シング・シング》1985年 富山県美術館
倉俣作品の中でも外すことのできない代表作《ミス・ブランチ》は1988年に発表されます。テネシー・ウィリアムズによる映画『欲望という名の電車』のヒロインに依拠し、造花の薔薇をアクリルに閉じ込めた椅子は、東京やパリで行われた展示で多くの注目を集めました。
倉俣は、人とオブジェの間に会話をつくりり出すことを重要視し、ピンクや黄色など淡い色の透き通るアクリルも使用しながら空間に軽やかさを生み出していきます。
第4章「かろやかな音色 1988-1991」展示風景
1980年ごろから夢日記を記していた倉俣。会場最後の「エピローグ」では、これまであまり公開されることのなかった、自身が思い浮かべた言葉の断片やユーモラスなデザインのアイデアを書き留めたノートやスケッチブックが並び、倉俣のイマジネーションを感じることができます。
エピローグ「未現象の風景」展示風景
エピローグ「未現象の風景」展示風景
56歳の若さで亡くなった倉俣史朗。会場では、その業績や独創性に存分に浸ることができます。また、美術館の入口には、《ハウ・ハイ・ザ・ムーン》が展示されています。伝統的なアームチェアのフォルムながら、軽やかさを感じさせる椅子は、座ることも可能です。
[ 取材・撮影・文:古川 幹夫、坂入 美彩子 2023年11月17日 ]