1923年に第1回展が開催され、現在も活発に活動を続けている洋画の公募団体「春陽会」。誕生から100年を迎えることを記念して、創立から1950年代頃までの春陽会の展開を紹介する展覧会が、東京ステーションギャラリーで開催中です。
東京ステーションギャラリー「春陽会誕生100年 それぞれの闘い」会場入口
近代日本画の巨匠、横山大観が率いていた美術団体・日本美術院には、洋画部が置かれていました。しかし、日本画部との間にそごが生じたことで、小杉未醒(放菴)や森田恒友らによって新たな団体である「春陽会」が発足します。
帝国美術院、二科会に拮抗する第3の洋画団体として誕生した春陽会は、新進気鋭の画家たちも加わり、1923年4月に第1回展を開催。油彩だけでなく、水墨や水彩など広く展示、一般からの公募数は2,466点にも及び、好調なスタートを切ります。
第1章では、小杉放菴、足立源一郎ら創立会員や岸田劉生ら創立客員の作品を紹介します。
(左から)足立源一郎《ヴェランダ》1926年 京都国立近代美術館 / 山本鼎《独鈷山麓秋意》1926年 上田市立美術館
東洋や日本の個展美に傾倒していた岸田劉生は、独自の芸術的価値観による絵画を発表し審査にも力を尽くします。岸田の作風に感化された画家も多く、春陽会が“暗い色調の絵画”と揶揄されることもありました。 岸田に対して不満を募らせる会員も現れ、1925年に岸田は春陽会を去ることとなります。
第1章「始動:第3の洋画団体誕生」
岸田劉生が去った後も残り春陽会を支えたのは、木村荘八と中川一政でした。岸田に共鳴していた三岸好太郎らも春陽会に若手の研究会を結成し、研鑚を積みました。
第2章「展開:それぞれの日本、それぞれの道」
春陽会の画家たちは、日本の風土を主題とする傾向がありましたが、長谷川昇らフランスに滞在する画家たちも第1回展から作品を発表していました。1928年には、パリに春陽会連絡事務所が設立され、翌年には小林和作、小山敬三、長谷川昇、林倭衛らの滞欧作品が特別に陳列され、存在感を示しました。
第2章「展開:それぞれの日本、それぞれの道」
しかし、春陽会を支える日本志向の中堅画家とヨーロッパから帰国した画家たちの芸術的感覚は相容れず、1933年から翌年にかけて8名の会員が退会。この時期の春陽会は大幅に会員や会友の数を減らすこととなります。
一方、展覧会では、版画の一般公募が増加します。大正期には、石井鶴三や木村荘八が新聞挿画において活躍。中川一政も装丁や挿画の世界で評判を得ます。その後、1939年の第二次世界大戦に伴いフランスから帰国した画家たちを仲間に迎え、春陽会の世代交代の準備が整っていきます。
第3章「独創:不穏のなかで」
終戦を迎え、春陽会は除々に活動を再開。若い世代が運営を引き受け、1947年からは一般公募も再開されます。復興から発展へと春陽会に貢献したのは、中川一政と岡鹿之助が挙げられます。
力強く個性あふれた画風を確立し、文章、日本画、デザインに優れ、その豊かな才能を発揮した中川。丘は、細かい筆触で風景や花などを描き、造形性を重んじた指導を行い若い画家たちにも影響を与えました。
(左から)中川一政《向日葵》1982年 / 《駒ヶ岳》1973年 ともに真鶴町立中川一政美術館
有望な若手画家の勧誘も行われ、春陽会は活性化していきます。水谷清がサンパウロ・ビエンナーレの代表となり、田中岑が第1回安井賞を受賞するなど、会員の外部での活躍も盛んになっていきます。
1952年からは版画家による版画部の審査を独自で開催。小杉放菴や岡鹿之助らに認められた駒井哲郎は審査員をつとめ、長谷川潔とともに作品を発表するなど、春陽会は新しい時代に適した団体へと変化を遂げていきました。
第4章「展望:巨星たちと新たなる流れ」
東京ステーションギャラリーでは年に1回、洋画の作品を紹介する展覧会を行っていますが、今回は1人の作家だけでなく、春陽会の歴史を追いながら様々な作品網羅することができるのも見どころです。
展覧会は来年、栃木県、長野県、愛知県に巡回する予定です。
[ 取材・撮影・文:坂入 美彩子 2023年9月15日 ]