放浪の天才画家、山下清(1922-1971)。驚異的な記憶力と集中力で日本の原風景や名所を貼絵で制作し、多くの人々の心を捉えました。
代表的な貼絵作品に加えて、子供時代の鉛筆画や後年の油彩、陶磁器、ペン画などを紹介し、その生涯と画業を振り返る展覧会が、SOMPO美術館で開催中です。
SOMPO美術館「生誕100年 山下清展 ― 百年目の大回想」会場入口
展覧会の第1章は「山下清の誕生 ― 昆虫そして絵との出合い」。山下清は現在の東京都台東区生まれ。幼いころ患った消化不良の後遺症で吃音になり、父が他界した頃には発達障害も目につくようになりました。
学校ではイジメにあい、成績も振るわなかった清ですが、図画だけは得意。好きな昆虫を捕まえて観察しては絵を描く少年でした。
(左奥から)《蜂 2》制作年不詳 / 《蜂 1》制作年不詳
第2章は「学園生活と放浪への旅立ち」。1934年、清は千葉県の養護施設である八幡学園に編入。ここで、色の付いた紙をちぎって貼る「ちぎり絵」に出会い、一気に才能が開花していきます。
当初は大きくちぎった紙を貼るだけでしたが、その技術はみるみる向上。一流の画家や美術関係者からも注目を集めるようになりました。
(左から)《大工さん》1937年 / 《学校で活動写真を写している所》1938年
1940年。清は突然学校を飛び出し、放浪の旅へ出ます。駅の待合室に泊まり、時には住み込みで働きながら放浪。旅先で見た出来事を克明に記憶できた清は、時おり自宅や学園に戻ると、旅先での風景を貼絵にしていきました。
貼絵に「こより」を用いるのは、清の独自の技法です。代表作である《長岡の花火》も、迫力ある風景を「こより」を駆使して制作しています。
(左)《長岡の花火》1950年
第3章は「画家・山下清のはじまり ― 多彩な芸術への試み」。朝日新聞社の記事により1954年に鹿児島で発見された清。画家として活動することを決意し、各地で展覧会を開催し、人気タレントのようになっていきました。
清は貼絵以外の創作も行っています。乾くのに時間がかかる油彩はあまり好みませんでしたが、マジックペンで描くペン画は得意。まるで機械で打ったかのように、正確にドットを描いています。
(右)《夙川風景》1956年
この章で紹介されている水彩画の《日本、しっかり》は、東京展のみの出品作。1964年に開催された東京オリンピックの開会式を描いたものです。
清は大会の前年から一年間にわたり、スポーツニッポン紙のオリンピック特集記事を担当し、挿絵と文章を寄稿していました。
《日本、しっかり》1964年頃 東京都蔵
第4章は「ヨーロッパにて ― 清がみた風景」。1961年、39歳の清は渡欧。約40日間で各地を巡り、日本に帰ってから本格的な制作に取り組みました。
その様子を制作した貼絵は、指でちぎったとは思えない細かなチップと、「こより」を駆使して制作。清が作った貼絵では最高傑作と称されています。
《スイスの町》1963年
《スイスの町》(部分)1963年
第5章は「円熟期の創作活動」。晩年の清は目の不調から貼絵は少なくなり、ペン画や陶磁器の絵付けが増えていきます。曲面に絵を描く陶磁器の絵付けは高い技術が必要ですが、清は短期間で習得し、専門家を驚かせています。
1965年からは東海道五十三次の制作を始めるものの、脳溢血で倒れ、1971年に死去。まだ49歳の若さでした。
(右)《かたつむり》1956年
テレビドラマの「裸の大将放浪記」のモデルとしても知られる山下清。高い知名度を誇りますが、あらためて作品に向き合うと、その超人的な技には驚嘆させられると思います。
生誕100年を記念した本展。兵庫、長野、滋賀と巡回し、東京展が4会場目。この後も巡回します。会場と会期はこちらです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2023年6月23日 ]
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