「鎌倉殿の13人」と連動して開催されてきた「北条氏展」。大河ドラマも大詰めとなり、展覧会も最終章を迎えました。Vol4では北条義時の子どもたちにスポットをあてます。鎌倉の歴史や文化は、北条一門の子どもたちによって引き継がれました。ゆかりの品々からその足跡を追ってみましょう。
鎌倉歴史文化交流館「北条氏展 vol.4 北条義時の子どもたち―中世都市鎌倉の黎明―」会場へ
出土品と北条氏
市内の発掘調査から鎌倉の発展の様子が伺えます。鎌倉が顕著に発展するのは中期以降で、義時の子どもたちの時代と重なります。各地の焼き物や漆器、瓦や金属製品など様々なものがあり、それらの中には、北条氏の家紋として知られる三鱗文が施されているものもあります。武士が家紋を使い始めたのは鎌倉時代中後期とされ、すべての三鱗文が北条氏というわけではありません。
三鱗文と北条氏
義時にはたくさんの子どもがいました。解りやすい系図が示されています。嫡男、次男、三男、四男を中心に出土品から鎌倉の政治や文化に迫ります。
北条義時(得宗家)流系図
北条泰時
北条義時から執権を引き継いだ嫡男泰時は御成敗式目の制定が有名です。文武両道の人物として記されました。大倉御所を宇津宮辻子へ移し、若宮大路を中心とする縦軸の町に成長、町の構造が変化しました。今に伝わる鎌倉の原型となっています。
将軍御所の移転
遠浅の鎌倉の海に人工の港、和賀江島も築きました。ここを玄関口として各地から品々が持ち込まれました。中でも宋や元から輸入された青磁等は、権威の象徴として珍重されました。漆塗りを重ね彫刻した堆朱は、後に鎌倉彫にも影響を与えたとされ、今に伝わっています。
北条氏と流通
北条朝時
義時の二男。時政以来の名越亭を継承し「名越」を名乗りました。義時との関係は良好ではなかったと言われていますが、父の没後、要職につきます。
新善光寺は鎌倉の弁谷にあった浄土宗の寺院で、名越氏ゆかりの寺院でした。付近のやぐらからは、蔵骨器として使われた白磁四耳壺が出土しました。ほぼ完全な形を留めた美しい壺です。
白磁四耳壺 元時代 新善光寺跡内やぐら
北条重時
三男の重時は、極楽寺を開き息子等に家訓を残しました。熱心な浄土教の信仰者で、家訓にもその影響がみられます。兄泰時、そして五代執権、時頼を支えた北条の長老です。
北条重時展示風景
北条政村
義時の四男。義時の没後、執権の座に持ち上げれられましたが失敗します。しかし順調に昇進しました。御成小学校付近では、宋や元の質の高い貿易磁器が多数出土し、この一帯に政村流の甘縄の邸宅があった可能性も指摘されています。泰時の死後、幕府の有力者として活躍しました。
武家屋敷の発掘調査
「武家の都」として名を馳せる鎌倉。その魅力の土台を築いたのは義時であり、没後、要職についた子どもたちです。彼らの信仰に基づいた寺社の建設、海や陸のインフラ事業、法整備等により政治や文化を牽引しました。それが鎌倉の魅力を今に伝える道筋となって繋がっています。
大河ドラマと展覧会、そして鎌倉の地を実際に巡ると、あまり知られていなかった北条氏の姿が浮かびあがります。鎌倉の歴史、文化、自然が織りなす重層性から、新たな発見をみつけてみませんか?
鎌倉歴史文化交流館の裏手に広がる自然
[ 取材・撮影・文:コロコロ / 2022年11月8日 ]
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