画家・舞台美術家として活躍した朝倉摂(1922-2014)。彫刻家の朝倉文夫の長女として生まれ、日本画家として若くして卓越した技量を発揮、60年代後半からは舞台美術へと活動の比重を移しました。
今年はちょうど生誕100年。初の本格的な回顧展が練馬区立美術館で開催中です。
練馬区立美術館「生誕100年 朝倉摂展」
展覧会は第1章「画家としての出発 ― リアルの自覚」から。東京・谷中に生まれた朝倉摂。朝倉文夫の教育方針で学校に一切通わないという独自の環境で育ちました。
17歳のときから日本画家の伊東深水に学び、官展である新文展のほか、在野の日本画団体である新美術人協会にも積極的に参加しました。
(左から)《街頭に観る》1942年 神奈川県立近代美術館 / 《雪の径》1944年 神奈川県立近代美術館
第2章は「日本画と前衛 ― リアルの探求」。洋画家や彫刻家たちとの交流を経て、朝倉の作品は社会派的な傾向を強めていきます。
1959年には共産国を中心とした平和運動であるウィーン青年学生平和友好祭に参加。集会で歌ったアメリカの黒人歌手に感銘を受け、絵画作品にしました。
《黒人歌手ポール・ロブソン》1959年 東京国立近代美術館 ※本作の展示は7/18まで
《1963》は、現在確認できる最大の日本画作品。炭鉱閉鎖のシンボルとして炭田の竪坑櫓を描いたものと見られています。
朝倉は1960年に文化人・芸術家に「安保批判の会」に参加。国会周辺での抗議活動も行いました。《内部への挑戦》は、安保運動を絵画化した作品です。
(左から)《1963》1963年 東京都現代美術館 / 《内部への挑戦》1960年 福島県立美術館
第3章は「舞台美術の仕事 ― イメージは発見」。社会運動で他者との連帯を経験した朝倉は、他者との協業で進める舞台美術や挿絵への指向を強めていきました。
本格的に舞台美術に取り組みはじめたのは、1950年代半ばから60年代。70年代半ば以降は蜷川幸雄、唐十郎という日本の戦後演劇を代表する二人の演出家の舞台美術を数多く手がけています。
第3章「舞台美術の仕事 ― イメージは発見」
「蜘蛛女のキス」はアルゼンチンの作家、マヌエル・プイグによる小説が原作。刑務所で同室になったトランスジェンダーの主人公と社会主義運動の政治犯による対話で進む物語で、舞台には鉄格子と照明、ベッドのみ。
観客との一体感を出すために、客席は監獄の床をとり囲むようにレイアウトされました。
「蜘蛛女のキス」舞台模型 1991年 アトリエ・アサクラ
最後の第4章は「挿絵の仕事 ― 余白を造形すること」。朝倉は絵本や小説の挿絵の分野でも活躍しました。
初期の作品には日本画家らしい特徴が見られますが、60年代後半からは画材も多彩になり、テクスチャを前面に打ち出し、かつ線描を印象的に取り入れた作品が目立つようになりました。
『アルプスの少女』発行:1970年1月20日 著作:ヨハンナ・スピリ/文:三越左千夫/少年少女世界の名作 第15巻/発行:世界文化社 神奈川近代文学館
『スイッチョねこ』は、作家の大佛次郎が「一代の傑作」と自賛した童話。白猫がスイッチョを飲み込んでしまい、おなかの中で虫が鳴くストーリーで、講談社出版文化賞絵本部門を受賞しました。
朝倉の絵は背景に紫、黄、緑など鮮やかな色を大胆に使う事で、手前の白猫を引き立たせています。
『スイッチョねこ』 発行:1971年11月16日 著作:大佛次郎/日本の名作/発行:講談社 大佛次郎記念館
他者との関わりを好み、かいかつな人柄だったという朝倉。会場で展示されているポートレートからも、その一端が伺えます。
生前はあまり公開されなかった日本画をはじめ、絵本や挿絵も含めて、朝倉の活動を俯瞰的に振り返る企画です。お見逃しなく。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年6月25日 ]