約2年の休館を経て、3月にリニューアルオープンした泉屋博古館東京。日本画コレクションを紹介した展覧会に続く第2弾が始まりました。
今回は、印象派と古典派という二つの流れから、住友コレクションにおける近代洋画を展観します。
泉屋博古館東京
展覧会は第1章「光と陰の時代 ― 印象派と古典派」から。住友春翠の洋画コレクションは、モネなどの印象派の作品と、フランス・アカデミズムの古典派絵画が共に収められているのが特徴といえます。
洋画収集に深く関わったのが、洋画家の鹿子木孟郎です。春翠は鹿子木の留学資金を援助する代わりに、西洋絵画の収集を依頼しました。
クロード・モネ《モンソー公園》1876年
展示室奥でひときわ目立つのは、ジャン=ポール・ローランスの《マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち》です。19世紀後半のフランス・アカデミーの画家で、鹿子木孟郎が師事しました。
作品は、フランス革命で活躍したマルソー将軍を描いたもの。敵将のカール大公が、葬儀への参列を許すことを条件に、遺体を仏軍に引き渡したというエピソードを描いています。
ジャン=ポール・ローランス《マルソー将軍の遺体の前のオーストリアの参謀たち》1877年
第2章は「関西美術院と太平洋画会の画家たち」。鹿子木はフランスで古典派絵画を修得、その成果といえる作品が《ノルマンディーの浜》です。
イポールの浜での取材をもとに、フランス・アカデミズムの正確な写実表現で描いた大作で、1908年のフランス芸術家協会のサロンに入選を果たしました。
鹿子木孟郎《ノルマンディーの浜》1907年
帰国後の鹿子木は、関西美術院や太平洋画会で活躍します。黒田清輝が牽引した白馬会と、明治美術会が母体となった太平洋画会は、表現方法も大きく異なり、明治後期の洋画界では二大潮流となりました。
渡辺與平は太平洋画会研究所で学んだ画家です。新聞雑誌のコマ絵では竹久夢二と並ぶ人気を誇りましたが、結核で早世。妻の渡辺ふみ子も画家です。
(左から)渡辺與平《ネルのきもの》1910年
第3章は「東京美術学校派と官展の画家」。黒田清輝はフランスでラファエル・コランに外光表現を学び、白馬会を結成。黒田が東京美術学校で指導した和田英作や岡田三郎助も白馬会で活躍しました。
岡田が浴衣美人を描いた《五葉蔦》。卵型で色白の顔と大きな瞳、小首をやや傾げたポーズは、岡田が得意としたスタイルです。
岡田三郎助《五葉蔦》1909年
第4章は「岸田劉生とその周辺」。住友春翠の子息、寛一は大正中頃に芸術への関心を高め、美術作品を精力的に収集。洋画家・岸田劉生とも親しく交流しました。
劉生から直接見せられたいくつかの麗子像の中から、寛一が選んだのが《二人麗子図》です。
(左)岸田劉生《二人麗子図》(童女飾髪図)1922年
そして第5章「20世紀のパリと日本」ではルオー、ピカソ、シャガールなど20世紀のフランスの画家達と、彼らから影響を受けた日本の洋画家たちの作品が並びます。
最後の展示室は特集展示「住友建築と洋画 ― 洋館には洋画がよく似合う」。
住友春翠は本格的な西洋文化を日本人の手で導入するため、日本人建築家・野口孫市の設計で住友須磨別邸を建築。英国コロニアルスタイルを基本にしたこの美しい建物には、パリから選ばれたモネの作品をはじめ、数々の絵画が架けられました。
特集展示「住友建築と洋画 ― 洋館には洋画がよく似合う」
須磨別邸は日本の画家も訪問し、当時目にする事が少なかった洋画を研究する貴重な場にもなりましたが、残念ながら1945年6月の空襲で美術品とともに焼失。現在は、別邸の門柱だけが当時の面影を残しています。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年5月20日 ]