フランス出身のアンドレ・ボーシャン(1873-1958)と、京都生まれの藤田龍児(1928-2002)。活躍した時代も国も異なりますが、ともに困難な状況の中から、心を癒してくれるような牧歌的な作品を描いてきました。
両者の代表作を含む計114点で、二人の作品世界を俯瞰していく展覧会が、東京ステーションギャラリーで開催中です。
東京ステーションギャラリー「牧歌礼讃/楽園憧憬 アンドレ・ボーシャン+藤田龍児」会場入口
展覧会は藤田とボーシャンの作品をそれぞれ紹介。最後に両者の作品を比較して展示します。
藤田龍児は京都生まれ。大阪市立美術館の付属施設である大阪市立美術研究所で学びました。30代から40代にかけてはグループ展や個展で積極的に活動しています。
山や植物を大胆に変容させる抽象的な画風でしたが、48歳の時に脳血栓で倒れ、大きな転機を迎えます。
藤田龍児《エポック》1963年 井上光央氏
50歳を目前にして右半身不随になった藤田は、懸命のリハビリの後に、左手で絵を描くようになります。
病気の後は作品の内容は大きく変わり、郷愁を感じさせる情景を丹念に描くスタイルに。のどかな風景は、記憶にある光景をもとにつくり出された藤田の心象風景ともいえます。
(左奥から)藤田龍児《定年退職後》1986年 星野画廊 / 藤田龍児《デッカイ家》1986年 星野画廊
藤田の作品には、繰り返し描かれるモチーフがいくつかあります。最もこだわったモチーフが「猫じゃらし」として知られるエノコログサ。最初期から最晩年までエノコログサを描き続けました。
《静かなる町》に現れる、とんがり帽子の女の子や白い犬も、しばしば登場するモチーフです。この作品にも前景にエノコログサが描かれています。
藤田龍児《静かなる町》1997年 松岡真智子氏
続くアンドレ・ボーシャンはフランス生まれ。もとは苗木職人でしたが、第一次世界大戦の後に農園は破産。心労で精神を病んだ妻の世話をしながら、絵画を描きはじめました。
1921年に48歳でサロン・ドートンヌに16点を出品し、9点が入選。徐々に評価を集めるようになり、現在ではアンリ・ルソー以来の最も優れた素朴派の画家といわれています。
アンドレ・ボーシャン《家族に別れを告げるジャンヌ・ダルク》1923年 個人蔵(ギャルリーためなが協力) / アンドレ・ボーシャン《アメリカ独立宣言》1926年 個人蔵
苗木職人だったボーシャンの絵には、木々や草花がしばしば描かれています。生涯に描いた2,000点超の油彩画のうち、過半は自然の景物がモチーフになっています。
ボーシャンの自然描写は、近景も遠景も同じようにくっきりと描かれ、ぼやけたり霞んだりすることはほとんどありません。軍隊で地形を正確に記録する測地術を学んだこととの関連も指摘されています。
(左から)アンドレ・ボーシャン《花瓶の花》1928年 個人蔵 / アンドレ・ボーシャン《窓》1944年 個人蔵(ギャルリーためなが協力)
ボーシャンもその一人とされる素朴派は、正式な美術教育を受けていない人々による作品。アンリ・ルソーはその代表格で、ルソーの作品はピカソなどの前衛画家たちからも高く評価されていました。
細部まで丹念で具象的な描写、明るい色彩、遠近法にとらわれない空間表現など、素朴派の特徴的な傾向は、ボーシャンの作品にも顕著に表れています。
(左奥から)アンドレ・ボーシャン《タルソスでアントニウスに会うクレオパトラ》1952年 個人蔵 / アンドレ・ボーシャン《芸術家たちの聖母》1948年 個人蔵(ギャルリーためなが協力)
展覧会の最後では両者の作品が並べて展示されています。
ボーシャンの《トゥールの大道薬売り》と藤田の《神学部も冬休み》は、ともに実在の場所がテーマになっていますが、実際とはかなり異なります。
ボーシャンは広場であることを維持しながら建物などを変えているのに対し、藤田は個々の建物は忠実ですが配置を大胆に組み替えています。
(左から)アンドレ・ボーシャン《トゥールの大道薬売り》1944年 個人蔵(ギャルリーためなが協力) / 藤田龍児《神学部も冬休み》1993年 個人蔵
展覧会は東京ステーションギャラリーの独自企画。展覧会の予定が大きく変わり、学芸員が個人的に温めていた素材を披露しあう中から、ボーシャンと藤田の作品が響き合っているように感じられて実現したものです。
閉塞感に満ちたコロナ禍において、心癒されるような温かい作品が胸に響きます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2022年4月15日 ]