推古天皇の摂政として日本の礎を築き、仏教の興隆に尽力した聖徳太子(574~622)。1400年遠忌にあたる今年は、太子ゆかりの寺院などで、盛大な法会や記念事業が営まれています。
サントリー美術館で始まった本展では、太子信仰の中核を担ってきた大阪・四天王寺の寺宝を中心に、さまざまな太子像やゆかりの品々が紹介されています。
サントリー美術館「聖徳太子 日出づる処の天子」会場風景
展覧会は第1章「聖徳太子の生涯 ― 太子の面影を追って」から。用明天皇2年(589)、仏教排斥派である物部守屋を、激闘の末に打ち破った太子。誓願を守って建てられたのが四天王寺です。
国宝《細字法華経》は「太子伝来七種の宝物」のひとつで、長大な『法華経』を細かい文字で1巻にまとめたものです。四天王寺で1214年に発見され、以後、格別の扱いを受けてきました。
(手前)重要文化財《細字法華経》平安時代 11世紀 大阪・四天王寺[展示期間:11/17~12/13]
国宝《七星剣》は、太子が所用したと伝わる国内屈指の古刀です。表面には雲気を吐く獣・雲・北斗七星などが金で表されています。
これらの模様は、古代中国の天体思想に由来し、衆生救済や国家安穏の意図が込められています。
(左奥から)《丙子椒林剣》月山貞一(二代)作 昭和54年(1979) 大阪・四天王寺 / 国宝《七星剣》飛鳥時代 7世紀 大阪・四天王寺[ともに全期間展示]
第2章は「聖徳太子信仰の広がり ― 宗派を超えて崇敬される太子」。日本に仏教を広めた人物として、聖徳太子は没後まもなく信仰の対象となります。
兵庫・善福寺の重要文化財《聖徳太子二歳像(南無仏太子像)》、京都・白毫寺の《聖徳太子二歳像(南無仏太子像)》とも、太子が東に向かって合唱し「南無仏」と唱えたという、幼い太子の二歳像です。
(左から)重要文化財《聖徳太子二歳像(南無仏太子像)》湛幸・湛賀作 鎌倉時代 13~14世紀 兵庫・善福寺 / 《聖徳太子二歳像(南無仏太子像)》鎌倉時代 13~14世紀 京都・白毫寺[ともに全期間展示]
展覧会のメインビジュアルでもある《聖徳太子童形像・六臣像》は、頬は丸い童形像ですが、眉がつりあがった厳しい表情が特徴的です。
左手の柄香炉は「孝養像」を、右手の笏は成人後の「摂政像」を意味します。
(左から)《聖徳太子童形像・六臣像》桃山時代 16世紀 大阪・四天王寺 / 重要文化財《聖徳太子童形立像(孝養像)》鎌倉時代 14世紀 茨城・善重寺[ともに全期間展示]
第3章は「大阪・四天王寺の1400年 ― 太子が建立した大寺のあゆみ」。大阪・四天王寺は、推古天皇元年(593)に聖徳太子が建立した日本最古の官寺です。長い歴史で何度も伽藍が失われましたが、太子への篤い信仰に支えられ、その都度再興を果たしています。
国宝《四天王寺縁起(根本本)》は寛弘4年(1007)に四天王寺金堂内で発見されました。奥書には太子自ら記したとある、同寺の最重要宝物です。
(手前)国宝《四天王寺縁起(根本本)》平安時代 11世紀 大阪・四天王寺[展示期間:11/17~12/13]
下のフロアに進んで目を引くのが、露出で展示されている大きな仏像。宮城・天王寺に、四天王寺金堂の救世観音像と四天王像の模像がそろって伝わった貴重な作例です。
太子は摂津、伊勢、出羽、奥州の4か所の天王寺を建立したとされており、宮城・天王寺は、この奥州天王寺にあたるとされています。
(中央)《如意輪観音半跏像》平安~桃山時代 12~16世紀 宮城・天王寺 / 《四天王立像》平安~桃山時代 12~16世紀 宮城・天王寺[ともに全期間展示]
そして第4章は「近代以降の聖徳太子のイメージ…そして未来へ ― つながる祈り」。明治時代になると、聖徳太子は国家の礎を築いた政治家としての側面がクローズアップされます。
聖徳太子のイメージを決定づけたのが、紙幣に描かれた肖像。昭和5年に発行された百円札を皮切りに、7種もの紙幣に登場しているのは太子だけです。
また山岸凉子による人気マンガ「日出処の天子」では、中性的な美しい容姿と、愛に苦悩する人間らしい姿で描かれ、より身近な存在になりました。
第4章「近代以降の聖徳太子のイメージ…そして未来へ ― つながる祈り」展示風景
今夏、東京国立博物館でも特別展「聖徳太子と法隆寺」が開催されましたが、こちらは四天王寺の寺宝が中心。あわせてご覧いただくと、太子信仰の広まりがより深く理解できることでしょう。
展覧会は大阪市立美術館で開幕し、サントリー美術館が最終会場です。お見逃しなく。
※会期中展示替えあり
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年11月16日 ]