日常的に使われてきた手仕事の日用品に美を見出した民藝運動。その活動の中心的存在が、宗教哲学者・文筆家の柳宗悦(1889-1961)です。
今年は柳が没してからちょうど60年。総点数450点を超える作品と資料で民藝の歩みを通覧する展覧会が、東京国立近代美術館で開催中です。
東京国立近代美術館「民藝の100年」会場
学生時代から同人誌『白樺』に参加していた柳宗悦は、1914年に結婚して我孫子(千葉県)に転居。志賀直哉や武者小路実篤が移住し、バーナード・リーチが窯を築いた我孫子は、民藝運動の揺籃の地といえます。
柳は『白樺』時代に『陶磁器の美』を出版。掲載作品17点のうち、15点が柳のコレクションでした。
第1章「『民藝』前夜 ─ あつめる、つなぐ 1910年代-1920年代初頭」 1-3「『陶磁器の美』と初期コレクション」 (左から)《鉄砂草文瓶》朝鮮半島 朝鮮時代 17世紀後半 日本民藝館 / 《色絵蓮池水禽文皿》中国・景徳鎮窯 明時代 17世紀 日本民藝館
柳宗悦、濱田庄司、河井寬次郎ら民藝運動の創設メンバーは、各地の民藝を精力的に発掘・蒐集していきました。大正から昭和初期にかけての交通網の発達も、民藝運動を後押ししています。
展覧会場前半の見どころといえるのが、1922年にソウルで行われた「李朝陶磁器展覧会」に出展された、3つの李朝の壺の揃い踏みです。大阪市立東洋陶磁美術館蔵の2点は、滅多に館外に出ない逸品ですが、「3点が同時に並ぶなら」という事もあり出展が叶いました。
第2章「移動する身体─『民藝』の発見 1910年代後半-1920年代」 2-1「朝鮮の友へ」 (左から)《鉄砂虎鷺文壺》朝鮮半島 朝鮮時代 17世紀後半 大阪市立東洋陶磁美術館(住友グループ寄贈・安宅コレクション) / 《染付辰砂蓮花文壺》朝鮮半島 朝鮮時代 18世紀後半 大阪市立東洋陶磁美術館(安宅英一氏寄贈)/ 《染付鉄砂葡萄栗鼠文壺》朝鮮半島 朝鮮時代 17世紀末期~18世紀初頭 日本民藝館
大正末から昭和初期にかけて「都市」に対する「郷土」という概念が成立します。民俗、民家、民具、民藝など「民」の文字が付く地方の伝統的な生活文化は「都市生活者の趣味」という側面を含みながら、活発化していきます。
柳は中世のギルドに倣って、新しい民藝のための制作者集団の組織を提案しました。若い作り手によって「上加茂民藝協團」が結成され、1928年の大札記念国産振興東京博覧会で、パヴィリオン「民藝館」を出品しました。
第3章「『民』なる趣味 ─ 都市/郷土 1920年代-1930年代」 3-6「新しい民藝をつくる」 (左から)《柳宗悦『工藝の道』ぐろりあそさえて》 [装幀:柳宗悦、表紙布:上加茂民藝協團考案布] 1928年 日本民藝館 / 《上加茂民藝協團関連図面》黒田辰秋 1928年 河井寛次郎記念館
柳は単に民藝を蒐集するだけでなく、それらを広める事にも尽力しました。雑誌における挿絵、作品図版のトリミング、展覧会での陳列方法などの影響力を知っていた柳は、メディアを駆使して物の見方を示す「編集者」だったのです。
1931年には雑誌『工藝』を創刊。布表装にしたり、用紙に和紙を使ったりと、雑誌そのものが「工藝的な作品」であるべきという発想のもと、毎号工夫を凝らしています。
第4章「民藝は『編集』する 1930年代-1940年代」 4-1「出版とネットワーク」『工藝』(第1号~第120号)[帙10点]1931年1月~51年1月 国立新美術館
ツイードの三つ揃いスーツ、帽子にネクタイ、丸眼鏡。民藝の人々の写真を見ると、スタイリッシュな装いに気がつきます。
集団で旅をする事が多かった彼らは、当時の人々からも注目を集めたようで、時には私服警察官の職質尋問を受けた事も。彼らの移動する身体そのものが「メディア」だったといえます。
第4章「民藝は『編集』する 1930年代-1940年代」 4-2「歩くメディア ─ 民藝と衣服」 (左から)ホームスパンを着る柳宗悦 日本民藝館にて 1948年2月 写真提供:日本民藝館 / 《茶地縞ジャケット(柳宗悦着用)》及川全三 岩手県盛岡市 昭和中期 日本民藝館
「古作」の民藝品の蒐集からはじまった民藝運動は時代を経るにつれ拡大し、1930年代から1940年代になると、その時代に流通していた「現行品」の調査が進みます。
調査の総括といえるのが、芹沢銈介と協働でつくった《日本民藝地図(現在之日本民藝)》(日本民藝館蔵)。全長13メートルを超える巨大な地図には、和紙、民窯、竹細工、染織など25種類の絵記号を使って、500件を超える産地が登録されました。
第5章「ローカル/ナショナル/インターナショナル 1930年代-1940年代」 5-1「『日本』の民藝地図」 《日本民藝地図(現在之日本民藝)》芹沢銈介 1941年 日本民藝館
本展では100年に及ぶ民藝運動の歴史を見通すなかで、アジア・太平洋戦争との関わりにも言及しています。
戦時体制の中、民藝は社会との即応性を重視し、体制側と手を結ぶ局面も少なくありませんでした。厳しい戦時統制の中『エ藝』や『月刊民藝』も、刊行を存続しています。
第5章「ローカル/ナショナル/インターナショナル 1930年代-1940年代」 5-9「民藝と戦争」 1940年~1944年に発行された『月刊民藝』『民藝』など 下段左側と中央の『民藝』のみ日本民藝館蔵、その他はすべて個人蔵
戦後の民藝はさらなる展開をみせていきます。1958年「フィンランド・デンマークのデザイン」展などから、民藝からインダストリアル・デザインへの流れが確立。経済成長のなか、民藝はブームといえる地位を築きました。
柳は戦後の縄文土器ブームに合わせるように、縄文土器を日本民藝館のコレクションに追加。民藝の中にあった「プリミティブ」な要素をフォーカスした動きといえます。
第6章「戦後をデザインする ─ 衣食住から景観保存まで 6-2「民藝と『プリミティブ』」
実は、東京国立近代美術館は1958年に柳から痛烈な批判を受けています。
「国立」「近代」「美術」を反転させた「在野」「非近代」「工芸」が民藝館であり、「現代の眼」を標榜する東京国立近代美術館に対し、民藝館は「日本の眼」に立つ、という論調でした。
ただ民藝には、運動の当初からバーナード・リーチという西洋の眼がありましたし、インダストリアル・デザインへの傾斜もありました。民藝も多面性を帯びている事は間違いありません。
第6章「戦後をデザインする ─ 衣食住から景観保存まで 6-3「国立近代美術館を批判する」
一般的にイメージされるような民藝の作品だけでなく、民藝運動の歴史的な展開や背景にも目を向けており、とても充実した内容の展覧会です。
これらの歩みを理解した上で、今後の民藝の展開にも注目していきたいと思います。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年10月25日 ]