情報の8割を視覚から得ているとされる私たち。目は美術鑑賞において大きな役割を果たすとともに、目そのものも、しばしば美術のモチーフになります。
館蔵品の中から、自画像や肖像画をはじめ、象徴的に目を描いたもの、目の存在を感じさせるものなど、「目力」のある作品を紹介する館蔵品展が、板橋区立美術館で開催中です。
会場の板橋区立美術館
会場は5章構成、第1章は「見る/見られる 私とあなた」です。
目が描かれた作品としてまず思い浮かぶのが、自画像や人物画です。人物の肖像は古今東西で描かれ、自画像には自らの姿勢や生きざまが、身近な人を描いた作品からは、画家との関係性が伺えます。
長谷川利行の《赤い少女》に描かれているのは、彼が通った食堂で働く少女。髪や服装が省かれているため、まっすぐにこちらを向いた目だけが強い印象を与えます。酒に溺れる破滅的な生活を送った長谷川は、東京を放浪しながら街の喧騒や働く人々の姿を描きました。
(左から)長谷川利行《赤い少女》1932年 / 寺田政明《夏芽の顔》
第2章は「目は口ほどにものを言う 時代へ向けられた目」。ここでは、モチーフとして目が象徴的に描かれた作品を紹介しながら、画家たちが何に関心を寄せて作品を描いたのか、読み解いていきます。
国吉康雄は、戦前からアメリカで活躍した画家。人間のような目で、物憂げな表情で荒野に立つおんどりを描いた《He's the King》には、戦時中、アメリカで敵国人として過ごした国吉の姿が重ねられているのかもしれません。
(左から)国吉康雄《He's the king》1945年頃 / 国吉康雄《Head of a Clown》1945年頃
この章には、新収蔵の中野淳の作品も2点紹介されています。中野は川端画学校で洋画を学び、松本竣介らに師事。武蔵野美術大学で教鞭をとり、後進の指導にもあたりました。
《ある食卓》に描かれているのは、魚の骨だけが載せられたお皿を囲む親子です。作品が描かれた1954年には改善されつつあったものの、戦後の食糧難は大きな社会問題でした。
(左から)中野淳《食卓(B)》1955年 / 中野淳《ある食卓》1954年
第3章は「見ることのない風景 まなざしの彼方に」。絵画には、作者の心のうちにしか存在しないような、現実ではありえない事象も描かれます。
地割れのある大地とスーツに身を包み、帽子を被った2人の人物が立つ様子が描かれているのは、伊藤久三郎の《Toleration》。ホースを手に、干上がった大地に水を撒こうとしていますが、大地の広さに戸惑っているようにもみえます。
1930年代中頃に描かれたこれらの絵画は、西欧のシュルレアリスムから影響を受けています。
伊藤久三郎《Toleration》1938年
第4章「見る/記録する 時代の証言」に並ぶのは、画家たちが戦中から戦後の日本の社会を見つめて描いた作品。戦時中の美術は戦いの場面を描いた作戦記録画が有名ですが、銃後の市民を描いたものも数多くあります。
新海覚雄の《貯蓄報国》もそのひとつ。軍事費の増加に伴い、貯蓄は国に報いるものとして奨励されました。セーラー服姿の女性も働く郵便局のカウンターには、貯蓄のために多くの人が詰めかけています。
新海覚雄《貯蓄報国》1943年
最後の第5章は「再見『さまよえる絵筆』の画家たち」。板橋区立美術館では今年の春に「さまよえる絵筆 東京・京都戦時下の前衛画家たち」展を開催しましたが、緊急事態宣言を受けて、会期の半分で閉幕してしまいました。その時に展示しきれなかった作品も加えて、同展を振り返ります。
戦時体制が強くなった1930年代後半、日本の前衛画壇は最盛期を迎える一方で、表現の自由は失われていきます。ただ、前衛画家たちは単純に弾圧に屈したわけではなく、伝統的な技法や題材に立ち戻りながら、新たな表現を模索していきました。
(左から)寺田政明《かぼちゃと山》1943年頃 / 寺田政明《芽》1938年
ユニークな切り口でコレクションを紹介する展覧会で、なんと観覧料は無料。公立美術館のコレクション展は料金が低めですが、この規模で無料の展覧会はそれほど多くありません。とても意義深いと思います。
ちなみに、第5章で紹介されている「さまよえる絵筆」展は、以前アイエムでもご紹介しています。あわせてご覧ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年9月7日 ]