50代半ばから絵筆を握り、日々の暮らしを題材にした絵画を、自由奔放に描いた塔本シスコ(1913–2005)。キャンバスはもちろん空箱からガラス瓶まで身の回りのあらゆるものに、よろこびあふれる創造のエネルギーを発散し続けました。
約200点の作品で、塔本シスコの自由な創作の世界を紹介する展覧会が、世田谷美術館で開催中です。
世田谷美術館「塔本シスコ展 シスコ・パラダイス」
1913年、現在の熊本県八代市に生まれた塔本シスコ。シスコは、養父が夢見ていたサンフランシスコ行きにちなんで名づけられた本名です。20歳で結婚。早くに夫が亡くなるなどの苦労もありましたが、子宝にも恵まれ、幸せな家庭を築きました。
転機が訪れたのは1966年。画家を目指していた長男が家を出て働き始めると、長男が家にのこした作品の油絵具を包丁で削り落として、自分でも描き始めたのです。53歳にして絵を描く生活がスタートしました。
第1章「私も大きな絵ば描きたかった」
1970年、シスコは長男と同居するため枚方市の一軒家に転居。庭の周りで育てたひまわりの景色に故郷を重ねた《長尾の田植風景》が公募展で入賞、自信を深めていきます。
同市内の団地に移ってからは、4畳半の自室をアトリエに、絵日記のように制作を続けました。
娘の病死など悲しい出来事に遭いながらも、描くことによって気力を取り戻したシスコ。その創造力は果てしなく湧き出るかのようです。
第2章「どがんねぇ、よかでしょうが」
第3章には、故郷である熊本や九州の風景を描いた作品が並びます。
70歳を過ぎると、熊本で過ごした子ども時代を振り返った作品も制作。画中に説明文を加えたものもありますが、当時の状況が少しでも正確に伝わるようにと思ってのことかもしれません。
第3章「ムツゴロウが潮に乗って跳んでさるく」
結婚した頃から、植物や小さな生き物を育ててきたシスコ。特に植物を描いた作品では、明るく鮮明な色彩があふれています。
この章のタイトルにある「私にはこがん見えるったい」は、シスコ自身の言葉です。自分の眼で見て受けとめた感動を、せいいっぱい表現しようとする、シスコの真摯な想いが感じられます。
第4章「私にはこがん見えるったい」
シスコにとって、家族は重要なモティーフでした。息子夫婦やふたりの孫の肖像画には、各自の好きな花も添えられています。
シスコは、自分の作品を見に来てくれる人との出会いを大切にしていました。作品を出展した展覧会は自分にとっての晴れ舞台。楽しいこと、にぎやかなことが大好きな人柄は、その作品が物語っています。
第5章「また新しかキャンバスを持って来てはいよ」
シスコは88歳の夏に貧血で倒れ、認知症を発症しますが、創作のエネルギーは衰えませんでした。
見舞いの花や果物をモティーフに、扱いやすい画材で小品を制作。花や鳥を並べ、装飾性豊かな作品が増えるのもこの頃の特徴です。
第6章「私は死ぬるまで絵ば描きましょうたい」
シスコは、描きたいという衝動を決して抑えませんでした。その創作の欲求は平面にとどまらず、木箱、竹筒、引き出し、空き瓶、そしてしゃもじにまで広がっていきます。
若い頃に習得した和裁の技術を活かして、和装の小さな人形も制作。襟元から裾の先まで絵柄を手描きした着物は、自分自身を着飾るために描いたものです。
第7章「シスコは絵をかく事シかデキナイのデ困つた物です」
亡くなる前年の2004年まで制作を続けたシスコ。創造の喜びにあふれた大量の作品を残して、2005年に91歳の人生を閉じました。
世田谷美術館では本展の後に、グランマ・モーゼス展を開催。ともに素朴派として語られる事が多い両者を比べてみるのも楽しみです。
東京展の後に、熊本、岐阜、滋賀と巡回します。会場と会期はこちらです。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2021年9月3日 ]