展覧会のテーマは、ずばり「眠り」。国立美術館が所蔵する絵画、版画、素描、写真、立体、映像など約120点で「眠り」の表現を辿る展覧会が、東京国立近代美術館で開催中です。

「眠り展」入口 会場デザインが特徴的です。
本展は「陰影礼讃」(2010年)、「No Museum, No Life? ーこれからの美術館事典」(2015年)に続く、国立美術館合同展の第3弾。国立美術館の豊富な所蔵作品の中から、古今東西のアーティスト33人の作品約120点が一堂に会します。
会場は序章「目を閉じて」からスタートです。眠るためにまず必要なのは、目を閉じる事。目を閉じた顔を見せるのはいかにも無防備ですが、閉じている側からすると、自分の内面と向き合う事ができる大切なひと時でもあります。

(左から)海老原喜之助《姉妹ねむる》1927 東京国立近代美術館 / ペーテル・パウル・ルーベンス《眠る二人の子供》1612-13頃 国立西洋美術館
第1章は「夢かうつつか」。「うつつ」を漢字で書くと「現」。眠りの中の「夢かうつつか」は、夢と現実の間のはっきりしない状態を示します。ルドンの作品に描かれる幻想的なモチーフは、まさに夢と現実のあいだに存在するかのようです。

オディロン・ルドン (左から)「ゴヤ讃」より (4)《胎児のごとき存在もあった》 / 「ゴヤ讃」より (3)《陰鬱な風景の中の狂人》 / 「ゴヤ讃」より (2)《沼の花、悲しげな人間の顔》 すべて1885 国立西洋美術館
第2章は「生のかなしみ」。眠りと目覚めは、小さな生と死の繰り返し。永遠の眠りは、死を意味します。荒川修作の《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン》は、セメントでできた奇妙な物体。剥き出しで棺に納められているようにも見えます。

(左から)堂本右美《Kanashi-11》2004 東京国立近代美術館 / 荒川修作《抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン》1958-59 国立国際美術館
第3章は「私はただ眠っているわけではない」。芸術家や女優らになりきる作品で知られる森村泰昌。三島由紀夫に扮してアジテーションを飛ばしますが、誰も関心を示しません。実際の事件ではこの後に眠るのは三島ですが、作品では一般市民が眠っているわけです。

森村泰昌《なにものかへのレクイエム(MISHIMA 1970.11.25-2006.4.6)》2006 東京国立近代美術館
第4章「目覚めを待つ」では、目覚めにまつわる表現をご紹介。河口龍夫の作品は、壁面には麦やタマネギなど30種類の植物の種子が封印された鉛の板。床にはそれらを発芽させるための土・水・空気が入った真鍮・銅・アルミニウムの管が各30本あります。チェルノブイリ原発事故から着想した作品です。

河口龍夫《関係―種子、土、水、空気》1986-89 東京国立近代美術館
第5章は「河原温 存在の証しとしての眠り」。戦後美術を代表する芸術家の一人である河原温。自宅やホテルの一室で、その日の日付を丹念にキャンバスに描き込む「Today」シリーズは、その日に作者が存在していた事を示す証でもあります。

第5章「河原温 存在の証しとしての眠り」
最後は終章「もう一度、目を閉じて」。ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《貧しき漁夫》には、舟の上で目を閉じる貧しい漁夫と、眠る子ども。穏やかな雰囲気が印象に残ります。オルセー美術館が所蔵する作品のヴァリアント(バリエーション)です。

ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ《貧しき漁夫》1887-92頃 国立西洋美術館
各章の冒頭にはスペインを代表する巨匠、フランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテスの版画を展示。ゴヤを案内役にして、美術における眠りの意味を辿っていく試みです。
展覧会は、展示デザインをトラフ建築設計事務所が、グラフィックを平野篤史氏(AFFORDANCE)が担当しました。繰り返される「眠り」にちなんで「持続可能性」(sustainability)が展覧会のもうひとつのテーマになっており、前会期の企画展「ピーター・ドイグ展」の壁面の多くを再利用している、という事です。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2020年11月13日 ]