都市部において中間層の消費活動に大きな影響を与えたのが、それまでの日本には無かった西洋型の百貨店です。
三越呉服店は1904(明治37)年に「デパートメントストア宣言」を行い、日本初の百貨店が誕生。取り扱い品目を増加、顧客層も拡大していきました。
今となっては不思議に思えますが、実はそれまでの消費行動で、個人の年齢や性別、趣味嗜好はあまり意識されませんでした。御主人は御主人に、奥様は奥様に相応しい商品を示す事で、それぞれの消費意欲を刺激していったのです。
第1章「百貨店の誕生と身体の商品化」古くから受け継がれてきた習慣や様式は「伝統」ですが、伝統は後の時代になってから定義づけられます。もっと言えば、伝統は発見されるもの、でもあります。
近代において「発見された伝統」を商品に利用したのが、百貨店でした。三越は森鴎外、新渡戸稲造、黒田清輝などの知識人が参加した「流行研究会」を結成。伝統を発見するとともに、その成果を巧みに取り入れて流行を発信していきました。
流行に取り入れられた伝統として、三越がしばしば用いたのが琳派です。三越は尾形光琳の200年忌にあたる1915年に「光琳遺品展覧会」を開催。これは日本の百貨店が初めて開催した展覧会でした。
第2章「流行の創出と「伝統」の発見」健康に対する考え方も、近代化の前後では大きく変容しています。
登山や海水浴は、今では当たり前のレジャーですが、以前の日本人は、生活の糧を得る事以外で、海や山に入る事はありませんでした。スポーツも同様で、それまでの日本にあったのは武士の嗜みとしての武芸です。
レジャーやスポーツを広めたのは、お雇い外国人でした。最初は大学生に、次いで一般社会にも広まり、スポーツ用品の開発からスキー場の整備まで、経済にも大きな影響を与えました。
ただ、戦争が深刻化すると、教練としての意味合いが強くなります。娯楽性は否定され、武士道精神が重要視されていきました。
第3章「健康観の変遷」よく「日本人はきれい好き」と言われますが、身体や髪を頻繁に洗うようになったのは1970年前後、まだ50年も経っていません。明治・大正時代は石鹸の品質も悪く、洗髪は髪を痛めるため、フケはこそぎ落とす始末。歯磨きも習慣化していなかったため、虫歯も蔓延していました。
きれい好きになったのは内風呂の普及と、シャンプーや石鹸の改良のおかげです。毎日、風呂に入るようになると、微香性があるボディシャンプーや洗顔料なども開発されました。「恋コロン 髪にもコロン ヘアコロンシャンプー」など、印象に残っている方も多いのではないでしょうか。
第4章「衛生観の芽生え」最後の章「美容観の変遷」のみ、企画展示室Bで紹介されています。
ハリウッド映画の影響で、口紅やほほ紅を使ったメイクが日本に登場したのは昭和初期から。ただ、戦争で流行は無くなり、売上高が戦前のレベルに戻ったのは50年代半ばでした。
化粧品メーカーがキャンペーン広告で流行を作るようになったのは60年代から。最近は肌は美白が当たり前になりましたが、戦後に2回、日焼けが流行った時期があります。1966年から(前田美波里)と、1977年から(夏目雅子)です。
第5章「美容観の変遷」多くの商品に当てはまるのが、近代化や欧米化が進むと、伝統と和風への回帰があり、また近代化・欧米化へ、という流れ。さらに科学的な考察が組み合わさる事で(日焼けはシミになる等)、徐々に身体観が変わって行った事が分かります。
下駄の底に刃をつけた「下駄スケート」など、展示されている商品の中には、現代の目線で見ると「なんだこれ?」もありますが、いずれも世に出た時は最新技術。スマホも50年後には「なんだこれ?」になる事でしょう。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年10月17日 ]■身体をめぐる商品史 に関するツイート