神奈川県立歴史博物館で昨年開催された
五姓田義松展、3月23日から始まる黒田清輝展と、相次いで開催されている明治初期の洋画家展。原田直次郎は、年齢的には両者の間です。36歳で死去した事もあって、その実力に比べると知名度はやや低いかもしれません。
生まれは幕末の江戸。父は渡欧歴がある開明的な人物で、原田も幼い頃からフランス語を学んでいました。西洋文化が身近にあった原田は、やがて西洋画の道へ。20歳になる1883年に高橋由一の画塾・天絵学舎に入門します。
会場には原田が描いた高橋由一の肖像画も展示されています(ただ、この作品を描いたのは留学を経て帰国した後です)。
第1章「誕生」原田は1884年にドイツ・ミュンヘンに留学。当地の美術アカデミーと、画家のガブリエル・フォン・マックスから本格的に油彩を学んでいきます。
美術アカデミーでの修行中に描いたと思われる老人の作品は、既にかなり高い完成度。的確な形態の捉え方と優れた明暗表現で、本格的な技術を身に付けていた事が分かります。
留学研修の結晶といえる作品が、重要文化財《靴屋の親爺》。禿げ上がった額、鋭い眼光。乱れた衣服を気にも留めず、一点を凝視する逞しい職人像は、匂いまで漂ってきそうです。
第2章「留学」日本における西洋画の広まりを期待し、3年半の留学を終えて帰国した原田。ただ、ちょうど時代はフェノロサと岡倉天心が日本美術の復興を唱えていた時代でした。相対的に洋画は軽んじられ、開校した東京美術学校にも西洋画科は設置されませんでした。
西洋画の普及に向けて奮闘した原田。第3回内国勧業博覧会に出品された《騎龍観音》には批判的な意見も出ましたが、原田を強く援護したのが森鷗外でした。鷗外と原田は留学時代に出会い、生涯にわたり親しく交わっています。
第3章「奮闘」1889年、原田は自邸に画塾「鍾美館」を開校。本格的な洋画を学ぶために集った輩の中には伊藤快彦、和田英作、三宅克己、大下藤次郎ら、後に日本の画壇を牽引する事になる画家も含まれていました。
ただ、徐々に病魔が原田の身体を蝕み、病の床に伏せるようになります。外出が困難になった原田が縁側で庭を描いた作品は心に響きます。
絶筆と伝わる作品は《安藤信光像》。伏したまま描いたので顔の下の方が大きくなったと伝わりますが、原田の観察眼の確かさを裏付けているようにも思えます。1899年に死去、まだ36歳の若さでした。
第4章「継承」会場の最後には、子供向けの「原田すごろく」も用意。「靴屋の親爺」に好きなセリフを言ってもらうユニークなパネルもありました。
《靴屋の親爺》と《騎龍観音》はともに重要文化財のため、会場ごとに実物展示が異なります。埼玉では《靴屋の親爺》の方をじっくりお楽しみください(《騎龍観音》はパネル展示です)。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2016年2月16日 ]※会期中に一部展示替えがあります
■原田直次郎展 に関するツイート