1907(明治40)年大阪に生まれ木村知石(きむら ちせき)は黒木拝石に師事、1942(昭和17)年当方書道展において「般若心経」が最高賞を受賞し、中央書壇へのデビューを果たしました。しかし第二次世界大戦中、「書道報国団」への参加を拒否したことから、書壇を離れ西宮市で、法帖と自然を友として一時期を過ごしました。その後書壇に復帰し、戦後日本の書道史において華々しく活躍した木村知石は、1983(昭和58)年76歳で没するまでこの地に居住しました。
木村知石の師である黒木拝石は晋唐の書の信奉者であったことから、知石の書も晋唐の絶対美に培われたものでした。しかしその一方で、冷静すぎる晋唐へ熱情的な抵抗を秘めて木村知石の書は、劉石庵から米フツへの傾倒し、さらには米フツを軸として何紹基、張瑞図、趙之嫌、王鐸へと急速に増幅し展開していったのです。この発展の中で知石の書は、波乱から典雅絢爛たる様相を呈し、最終的には「うまい字を書きたい」という極く素朴で、正直な希求へと繋がり、現代の三筆の一人と数えられるほど才筆妙趣な、知石スタイルとでも言うべき流麗な書を確立していきました。
戦後は、1953(昭和28)第9回日展において「瓜疇老人小伝」が特選を受賞、翌年第10回日展においても「唐詩二首」が特選を受賞し、中央書壇への再登場を果たしました。その後は日展審査委員、日展常務理事も務め、1971(昭和46)年兵庫県文化賞、1973(昭和48)年西宮市民文化賞、1976(昭和51)年日本芸術院賞、1978(昭和53)年神戸新聞平和賞などを受賞します。
中央書壇で華々しく活躍する一方、1950(昭和25)年に設立された兵庫県書家作家協会のまとめ役の一人として活躍、1951(昭和26)年には西宮書道協会の結成に寄与しました。1953(昭和28)年西宮市内に玄雲社を創設。また、同年より西宮市展審査委員を務め、1973(昭和48)年より西宮芸術文化協会運営委員も務めました。さらに知石の活躍は西宮だけにとどまらず、関西の書壇の牽引役をも務めました。本展覧会では西宮市が誇る書壇の重鎮、木村知石の業績を約80点の作品と関連資料により紹介します。