太齋春夫は1907(明治30)年、宮城県名取郡中町(現仙台市)生まれ。若い頃より絵画の才能に恵まれ、東京美術学校在学中に二科展に入選するなど、油彩でも成果を収めますが、漆と出会った事で人生は一変します。
漆器は日本を代表する伝統工芸ですが、当時は近代化が進む中で徐々に衰退。職人ではなく芸術家が関与する事によって、漆の可能性を広げようとしたのです。
生涯の師となる漆芸家・六角紫水の推薦もあり、台湾総督府殖産局の嘱託になった太齋。台湾で漆の研究を進めます。
会場入り口から。初期の油彩のほかは、風景・生物・人物像など全て漆絵です。台湾を意識した異国情緒あふれる作品も。会場入口の風景画を含め、目を引くのがモザイクの作品です。漆塗したアルマイトを小片にして絵画にする「漆塗アルマイトモザイク」で制作されています。
漆器の難点が、歪みや割れ。特に海外に輸出すると気候が違うため、素地の木材が乾燥してトラブルになります。素地が金属なら心配ありませんし、石や陶器を用いるモザイク画より、時間もコストもかかりません。
太齋はこの手法で、さまざまな作品を制作しました。下図とともに展示されている大作《貴婦人像》は、上野の松坂屋から発注されたものです。
太齋は特許を取得した技術「漆膜」も開発しています。漆をフィルム状にしたもので、産業への応用を視野に入れたこの手法は「工芸美術界の革命」と称されました。
「漆塗アルマイトモザイク」で描かれた作品などただ、当時は軍靴の音が大きくなるばかり。漆絵の大きな作品も、陸軍美術家協会が主催した「国民総力決戦美術展覧会」へ出品された作品です。
1943年には36歳で応召。戦地でも時間を見つけてスケッチをしていましたが、中国湖南省で道路偵察中に爆撃を受けて戦死してしまいます。戦前から親しかった洋画家の内田巌はその死を悼み、弔いの歌を送りました。
太齋が開発に関わった技法はほとんど継承されていませんが、静岡県庁本館の踊り場に《宝船》が現存しています(
写真はこちら)。1937年に設置されたので80年経ちますが、美しい発色が保たれているのは太齋の狙い通りといえるでしょう。
戦地で描かれたスケッチなど展覧会は、太齋の遺族から作品・資料が
練馬区立美術館に寄贈された事がきっかけ。あまり知られていなかった作家に、こういったかたちで日が当たるのは、とても意義深い事といえます。
1939年にニューヨーク・サンフランシスコ両万博に出品され「日本工芸美術の華」と称賛された衝立は、米国に留まるも所在不明です。この展覧会をきっかけに、さらに調査・研究が深まる事も期待したいと思います。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2017年6月14日 ]■太齋春夫 に関するツイート