柳瀬正夢は1900年、松山市生まれ。11歳で門司市(現北九州市)に移り、小倉で見た展覧会をきっかけに画家を目指すようになります。
若干15歳で出品した《河と降る光と》が、第2回再興院展に入選。一躍、天才少年として注目されるようになりました。
動画の最後が、15歳で再興院展に入選した《河と降る光と》上京した柳瀬は読売新聞に入社。当時の社員名簿にも、編集部にその名が残ります。政治家などの似顔絵を描き、新聞漫画家として活躍しました。
一度は退社するも、読売新聞漫画部の創設にともなって再入社。子供向け漫画の他、フォトモンタージュなども手掛けています。
柳瀬は読売新聞とは縁が深く、新聞社を離れた後も、柳瀬の個展で正力松太郎社長が作品を購入するなど、個人的な関係は続きました。《緑都 景山より北京西城区及び西山をのぞむ》も正力松太郎が購入したもので、本展で戦後初公開となりました。
動画の最後が《緑都 景山より北京西城区及び西山をのぞむ》柳瀬は未来派の美術運動にも関心を寄せており、1923年には村山知義、尾形亀之助らとともに「MAVO(マヴォ)」を結成します。「MAVO(マヴォ)」という名称を発案したのも柳瀬ですが、由来は分かっていません。
7月に開催された第1回展には、《五月の朝と朝飯前の》を出品しました。パレットナイフ、ペインティングナイフ、櫛の歯、紐や釘などを用いて、絵の具を引っ掻いたり押し付けたりして描いた作品です。
ただ、その後は村山との思想的な隔たりもあり、MAVOとの関係は続くものの、積極的な交流ではなくなりました。
《五月の朝と朝飯前の》と、MAVOでの活動油彩画で世に出た柳瀬ですが、1920年半ばから30年代初頭にかけては絵画を批判。「資本主義のデコレーション」とまで断言します。
この時期の柳瀬はプロレタリア運動に身を投じ、漫画とグラフィック・デザインに注力していました。
「赤旗」が発行されるまで日本共産党の唯一の機関紙だった「無産者新聞」のポスターなどを手掛けますが、1932年に治安維持法違反容疑で逮捕。約1年にわたって拘留されることとなります。
プロレタリア活動の末、治安維持法違反容疑で逮捕されます拘留中に妻が死去した柳瀬。周辺の勧めもあり、再び油絵を手掛けるようになります。
さらに中国各地を訪れて写真を撮ったり、子ども向けの絵雑誌を手掛けたりと、戦時中の厳しい制限の中でも、さまざまな創作活動を進めました。
1945年5月25日、疎開中の長女を見舞うために訪れた新宿で空襲に遭い、45歳で死去。遺作は東京新聞の新聞小説「をがむ」の挿絵です。
遺作は東京新聞の新聞小説「をがむ」の挿絵でした北九州市立美術館から巡回して来た本展。葉山での展覧会の後には、
愛媛県美術館(4月5日~5月18日)に巡回します。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2014年2月12日 ]