深沢紅子は1903年、盛岡生まれ。女子美術学校(現・女子美術大学)で日本画を学び、後に油彩画科に転向して岡田三郎助に師事しました。
同郷の油彩画科・童画家の深沢省三と結婚し、その生涯を通じて花と女性像を中心に制作。本展が開催されている吉祥寺には、1930年ごろから終戦まで居住した縁があります。
会場「私はすべて野の花から教えられた」と語っていた紅子。1964年頃から約20年間、夏期になると軽井沢に滞在し、野の花のスケッチを続けていました。
紅子は「強いものより弱いもの、華やかなものより落ちついたもの、賑やかなものより静なもの」
(実業之日本社『深澤紅子自選画集・野の花によせて』1986年) を好みました。晩年に描いた野の花の水彩画を中心に構成した本展には、館内各所に野の花に寄せた紅子の想いも綴られています。
会場紅子は立原道造や堀辰雄ら多くの文学者・詩人たちと交流し、挿絵や装丁も数多く手がけました。平置きの展示ケースでは書籍が紹介されています。
1993年の1年間は婦人之友社の月刊誌「婦人之友」の表紙絵を担当し、1月号の「山椿」から12月号の「木々の宴」まで野の花を描いています。紅子はこの年の3月に急逝しましたが、絵は既に12月号まで描き上げていたため、表紙絵は年末まで掲載されました。
「婦人之友」の表紙本展は水彩画が中心ですが、紅子は22歳の若さで二科展に初入選。日本画の影響も見える淡い色彩で描いた油彩画で、一水会、女流画家協会などで活躍しました。数点ですが、女性像と野の花の油彩も紹介されています。
油彩「花の気持ちをよく知っておくことが、大事だと思う」
(視覚デザイン研究所・編集室『油絵ノート・花』1988年) と語っていた紅子。花をいとおしみ、姿だけではなくその性格までも描写しようとしたからでしょうか。紅子が描いた野の花は、いわゆる博物画とは異なるあたたかさが感じられます。
紅子の死去から3年後の1996年、郷里の盛岡と長年避暑に訪れた軽井沢に個人美術館が開館しました。名前はともに「深沢紅子 野の花美術館」。野の花を愛した紅子の人柄を偲ぶように、両美術館も多くの人に親しまれています。(取材:2012年9月19日)
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宮沢 賢治 (著), 深沢 紅子 (イラスト) 岩崎書店 ¥ 588 |