江戸時代後期に濃厚華麗な花鳥画で活躍した岡本秋暉(おかもとしゅうき)。特に孔雀の名手として名を馳せ、透明感溢れる華やかな色彩と、羽の美しさを描き尽くす繊細な技巧で江戸の人々を魅了しました。
千葉市美術館「岡本秋暉 百花百鳥に挑んだ江戸の絵師 ― 摘水軒コレクションを中心に」は、秋暉とは関わりが深く、世界一の秋暉コレクションを誇る摘水軒記念文化振興財団の所蔵品を中心に、約100件で秋暉の画業を通覧する展覧会です。
千葉市美術館「岡本秋暉 百花百鳥に挑んだ江戸の絵師 ― 摘水軒コレクションを中心に」会場入口
江戸・芝で、彫金家の次男として生まれた岡本秋暉。叔母が小田原藩主の側室になったことで、養子となった秋暉も士分になりましたが、幼い頃から画を好み、南蘋派に連なる大西圭斎に師事。画人として歩みを進めて行きました。
会場冒頭の《孔雀図》は25歳で描いたもので、現在知られるなかで最も早い秋暉の作品です。この頃は師の影響が強く、後年の作品より柔和な描写です。
岡本秋暉《孔雀図》天保2年(1831)8月 摘水軒記念文化振興財団[全期間展示]
小田原藩士であった秋暉は藩の命を受けて、藩主御殿や江戸屋敷の杉戸絵なども描いたとの伝承があります。
小田原城の藩主御殿である二の丸御屋形の正面玄関を飾ったと伝わる杉戸絵は、4枚8面が伝わっています。杉戸絵の《孔雀図》は顔料が退色していますが、もとは色鮮やかな作品だったと考えられます。
《孔雀図》江戸時代(19世紀)小田原城天守閣[展示期間:6/28~7/28]
秋暉は、同じ小田原藩で農村復興の指導者として名高い二宮尊徳の肖像画も描いています。
尊徳の信奉者が依頼したものですが、尊徳は肖像を描かれるのを嫌っていたため、対話中に密かに写生したと伝わります。
並んで展示されている画稿からは、慣れない肖像画に奮闘する秋暉の姿も伺えます。
岡本秋暉《二宮尊徳座像》天保13年(1842)頃 報徳博物館[全期間展示]
岡本秋暉《二宮尊徳肖像集》天保13年(1842)頃 個人蔵[全期間展示]
秋暉の本領は精緻で端麗な花鳥画。南蘋派の図様をベースに、同時代に活躍した渡辺崋山や椿椿山などからも影響を受けながら、独自の画風を習熟させていきました。
なかでも鳥については、小鳥店に通って珍しい鳥の生態を観察し、写生を重ねたという逸話も残っています。
岡本秋暉《鳥類写生図巻》江戸時代(19世紀)東京国立博物館[会期中場面替]
《百花百鳥図》は、中国・明時代に流行した「百島図」から想を得た作品。通常、中国の百鳥図の中心には鳳凰が描かれますが、ここでは錦鶏(きんけい)が中心。まわりには、中型・小型の鳥、約50羽が描かれています。
岡本秋暉《百花百鳥図》江戸時代(19世紀)摘水軒記念文化振興財団[全期間展示]
そして、岡本秋暉といえば孔雀。秋暉は数多くの孔雀図を描いており、会場の一角では孔雀図がまとめて紹介されています。
嘉永6年(1853)、47歳の頃に描いた《孔雀図》は、高価な画材、豪華な仕上げで、最上ランクといえる作品。極めて細かな部分まで入念に仕上げられており、円熟期の筆力が遺憾なく発揮された逸品です。
白梅の老木、菊、太湖石(たいこせき:穴の多い複雑な形の奇石)など長寿を意味するモチーフも多く、吉祥的な意味ももつ作品です。
岡本秋暉《孔雀図》嘉永6年(1853)個人蔵[全期間展示]
40代後半頃から、秋暉の作風はわずかに変化していきます。今までにない題材にも挑戦していったほか、花鳥画でも中国由来の吉祥的な作品を描きました。
《雲龍図》は、没年である文久2年に描かれた作品。龍の頭や鬚(ひげ)、体などを白く塗り残したうえで、背景に淡墨を刷き、さらにその周囲に墨をぼかして入れることで、雲の中から龍があらわれる様子を巧みに表現しています。
岡本秋暉《雲龍図》文久2年(1862)1月7日 摘水軒記念文化振興財団[全期間展示]
会場には秋暉の人となりを示すエピソードも紹介されています。中肉、中背、猫背、出っ歯。非常に酒好きで、毎日のように欠けた徳利に欠けた猪口で、自分の画を眺めながらちびりちびりと一人で飲む、という、端正な画風とは、ややイメージが異なる実像が記されていました。
展覧会は「江戸絵画縦横無尽!摘水軒コレクション名品展」と同時開催。こちらも肉筆浮世絵や花鳥画・動物画の逸品が並びます。両展とも会期途中で展示替えがありますのでご注意ください。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2024年6月27日 ]