明治・大正期に活躍し「最後の文人画家」と称えられる富岡鉄斎(1836-1924)。さまざまな学問を学んだ上で人間の理想を説いた鉄斎の絵画は、生前から今日まで国内外で高く評価されてきました。
今年は鉄斎が没してからちょうど100年。これまで一般に公開されなかった作品も含め、貴重な作品で鉄斎の全容を俯瞰する展覧会が、京都国立近代美術館で開催中です。
京都国立近代美術館「没後100年 富岡鉄斎」会場入口
富岡鉄斎は天保7年(1836)、京都生まれ。生家は洛中の商家ですが、実践的な道徳である「石門心学」を代々重んじ、鉄斎もまた儒学、漢詩文、国学、神道、仏教など諸学を学びました。
学者として早くから評価されるも生活は苦しく、収入を得るため絵を制作。やがて、書画でも知られるようになりました。
絵と書と学問を一体で考えるという、文人画家の姿勢をつらぬいた鉄斎。展覧会の序章では、鉄斎の画業を初期から晩期の手前まで一気にたどります。
《漁樵問答図》明治33年(1900)65歳 京都市美術館[展示期間:4/2~4/29]
《勾白字詩七絶》は、草花や人々のポーズなどで文字を表したユニークな作品。
鉄斎の知人が所蔵する原本を模写したうえで、詩意に相応しい創意と工夫を加えて、美しい彩色で描きました。
《勾白字詩七絶》明治時代 60歳代 清荒神清澄寺 鉄斎美術館[展示期間:4/2~4/29]
「文人多癖」という語を好んだ鉄斎。「癖」とは極度の愛着のことで、文房具、絵具、煎茶道具などさまざまなものを集めました。
中でも代表的なコレクションが、印章。自刻の印章のほか、友人たちが刻した印章、池大雅や頼山陽など先人たちが刻した印章など、数々の印章を集めました。
鉄斎の印章コレクション
こちらは、平賀源内が陶工を指導して始めた源内焼の高炉。
同型・同刻字の作品の現存が複数確認できることから、源内の手になる原型を元に生産されていたと思われますが、平賀源内が手ずから制作したものとして愛蔵していたようです。
伝平賀源内《子育馬香炉》安永3年(1774)清荒神清澄寺 鉄斎美術館[全期間展示]
「万巻の書を読み、万里の路を行く」は中国・明代の文人、童其昌の言葉ですが、鉄斎はこれを絵を描く者が心がけるべき目標とし、実際に日々読書に励むとともに、鹿児島から北海道まで全国を旅しました。
《済勝余興図》は伊勢神宮から神通川にかかる舟橋(富山)までの名所を、《漫遊所見図》は鉄斎が遊歴で見てきた所を描いたものです。
《済勝余興図・漫遊所見図》明治4年(1871)36歳 清荒神清澄寺 鉄斎美術館[展示期間:4/2~4/29]
明治初期には神官として古跡の調査と復興に尽力した鉄斎。
明治10年(1877)7月、鉄斎が大宮司をつとめていた堺の大鳥神社に伊勢神宮祭主の久邇宮朝彦親王が参拝したことから、久邇宮家と親交。こちらは、久邇宮の命を受けて制作した作品です。
《盆踊図》明治時代 60歳代 髙島屋史料館
鉄斎の画業は50歳代で既に円熟していましたが、長寿に恵まれたことで円熟を深めていきました。展覧会の最終盤には、鉄斎の円熟期の作品が並びます。
鉄斎は富士山を何度も描いていますが、六曲屏風一双のこちらの富士山図は、ひときわ異彩を放つ大作です。右隻は富士山の全体を表し、左隻はその火口付近がクローズアップされています。
宝塚市指定有形文化財《富士山図》明治31年(1898) 63歲 清荒神清澄寺 鉄斎美術館[展示期間:4/2~4/29]
こちらの作品は「白鷹」で知られる西宮の酒造家、馬党を訪ねて歓待を受けた鉄斎が、感謝の意をこめて制作した渾身の大作。滞在中の約2週間で制作しました。
昭和44(1969)年に重要文化財に指定された、鉄斎を代表する名品です。
重要文化財《阿倍仲麻呂明州望月図・円通大師呉門隠栖図》大正3年(1914) 79歳 公益財団法人 辰馬考古資料館[展示期間:4/2~4/14]
鉄斎が活躍した時代は、西洋から新しい美術が続々と流入してきた時代。他の画家たちがそれらの動きに翻弄されるなか、古風な姿勢を貫いた鉄斎は、むしろ個性的なようにも感じられます。
展覧会は京都からスタートする巡回展。富山県水墨美術館(7/12〜9/4)、碧南市藤井達吉現代美術館(10/5〜11/24)と続きます。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2024年4月1日 ]
※会期中に一部展示替えがあります。
(左)77歳の鉄斎