織田信長の弟で、茶人として名高い織田有楽斎(うらくさい)こと織田長益(1547-1622)。三人の天下人に仕え、晩年は京で茶の湯を極めました。
有楽斎が2021年に400年遠忌を迎えたことを記念し、関係する作品・資料を紹介しながら、その実像を総合的に捉えなおす展覧会が、サントリー美術館で開催中です。
サントリー美術館「大名茶人 織田有楽斎」会場入口
織田信秀の十一男として生まれた織田長益。嫡男の信長とは13歳離れています。
冒頭で展示されているのは、有楽斎の生前の姿を写したと伝わる《織田有楽斎坐像》。有楽斎が剃髪したのは天正14年(1586)未頃ですが、有楽斎は建仁寺の僧籍を持っていたわけではなく、正伝院の住職でもありません。
《織田有楽斎坐像》江戸時代 17世紀 正伝永源院[全期間展示]
織田家の有力武将として成長した長益ですが、本能寺の変では、二条御所で主君・信忠(信長の長男)が自害したにもかかわらず御所を脱出したため、風聞書などで「逃げた男」と揶揄されるようになります。
《義残後覚》は、有楽斎の行動を悪しざまに書く代表的な書物です。全85話による世間話集で、原本は16世紀末頃に成立したとみられています。
《義残後覚 第五巻》愚軒 江戸時代 17世紀 加賀市立中央図書館[全期間展示]
本能寺の変の後、長益は豊臣秀吉に仕え、秀吉の没後は徳川家康の臣下に。関ヶ原の戦いでは石田三成軍と戦い、戦功をあげました。大坂冬の陣では豊臣・徳川の間で和議を結ぶよう説得しています。
もともと茶人として利休も一目を置く存在だった長益。高僧や有力な武将などとたびたび茶会を開いており、その活動を示す書状が、いまも正伝永源院に多く残っています。
(左から)《松平陸奥守書状 織田有楽斎宛》江戸時代 17世紀 正伝永源院 / 《前田玄以書状》江戸時代 17世紀 3月2日 正伝永源院[ともに展示期間:1/31~2/26]
1586年(天正14)頃から有楽と号するようになり、大坂夏の陣を前に京都・二条へ移り、建仁寺塔頭・正伝院を再興。茶室「如庵」を造営し、没するまで茶の湯三昧の日々を送りました。
有楽斎が生前に集めた茶道具は、現在ではほとんど行方が分かっていませんが、本展では《大井戸茶碗 有楽井戸》など、かつて有楽斎が所持していたものも展示されています。
重要美術品《大井戸茶碗 有楽井戸》朝鮮王朝時代 16世紀 東京国立博物館[全期間展示]
《唐物文琳茶入 銘 玉垣》は、有楽斎から豊臣家に献上された茶入です。大坂夏の陣で蔵の崩落により割れてしまいましたが、焼跡から欠片が発掘され、漆で見事に修復され、家康に献上されました。
表面の漆がはがれかけたことから、1989年(平成元)に分解され、再び継ぎ直されています。
《唐物文琳茶入 銘 玉垣》南宋時代 12~13世紀 遠山記念館[全期間展示]
会場の中ほどには、ユニークな3D展示もあります。愛知県犬山市の有楽苑に移築されている国宝の茶室「如庵」と、重要文化財の「書院」の3次元計測データを用いた「空間再現ディスプレイ」です。
これは、鑑賞者の瞳の位置をとらえて、瞬時にその場所で立体視できるように映像を生成するディスプレイ。つまり、鑑賞するひとりだけが正しく立体視することができます。会場では譲り合ってお楽しみください。
「3D点群データを用いた空間再現展示」
有楽斎が住んだ正伝院は、もともと本山建仁寺の東北にありましたが、現在は本山の真北、旧・永源庵の敷地にあります。
これは、細川家の菩提寺だった永源庵が明治時代に廃寺となったため、その地に正伝院が移ったことによるもので、その際、寺名も正伝永源院になりました。
《蓮鷺図襖》は、有楽斎が再興した正伝院から移されたものです。全体で季節の移ろいが表現されています。
《蓮鷺図襖》狩野山楽 江戸時代 17世紀 正伝永源院[全期間展示]
北宋の皇帝・徽宗は画事に長けていたことで知られ、徽宗が描いたとされる架鷹図は、東アジア圏でひろく歓迎されました。
正伝永源院に伝わる架鷹図は、全8幅(前後期で4幅ずつ出展)。とまり木の上で羽を休める鷹は、鷹狩りなどを通じて武人たちにとって身近な姿でした。
《架鷹図 八幅の内》伝 徽宗 南宋~明時代 13~15世紀 正伝永源院[前後期4幅ずつ展示]
波とうさぎを組み合わせた画題は、謡曲「竹生島」などから派生し、江戸時代には広まっていきました。
有楽斎の次男である織田頼長が描いた《波に卯図》には「浪をはしる うさぎで月の ひきゃく哉」と自賛しています。織田頼長は、奇抜な振る舞いの“かぶき者”としても知られています。
《波に卯図》織田頼長 江戸時代 17世紀 正伝永源院[展示期間:1/31~2/26]
2021年、有楽斎の心が息づく正伝永源院に、有楽斎が茶道の父として敬愛した武野紹鷗の供養塔が戻ってきました。
塔は紹鷗の25回忌に堺に建立されたもの。紹鷗への思いが深かった有楽斎が正伝院に移しましたが、大正期に関西財閥の藤田家へ。有楽斎の400年忌にあわせるように、元の場所である正伝永源院に奉納されました。
武野紹鷗供養塔 銘文の拓本
一説には、東京・有楽町の町名は有楽斎に由来するとされています。有楽斎は関ヶ原の戦いのあと徳川家康方に属し、数寄屋橋御門の周辺に屋敷を拝領。その屋敷跡が有楽原と呼ばれていたことから、明治時代に「有楽町」と名付けられたという説ですが、近年は異論もあります。
なお、東京国立博物館では「本阿弥光悦の大宇宙」が開催されていますが、光悦と有楽斎との交友も知られています。両展あわせての鑑賞もおすすめします。
[ 取材・撮影・文:古川幹夫 / 2024年1月30日 ]